コロナ禍の2020年9月、GoToトラベルが始まり、4連休を利用して遠出のドライブ旅行に出掛けた。目的地は山陰方面、途中、是非とも行ってみたかった鳥取県の太閤ヶ平(たいこうがなる)を登城した。ここへ車で行く場合は鳥取市歴史博物館を目指すのが良い。隣に無料の駐車場が有る。
登城日は2020年9月21日。ルートマップを入手し、向かう道程は鳥取東照宮鳥居から舗装された道路を行く「太閤ヶ平ルート」、1時間30分とある。そして、そこから縦走し、鳥取城本丸(山上ノ丸)へ向かう「兵糧攻め対陣コース」、最後は本丸から山下ノ丸方面へ下る「中坂コース」だ。鳥取城は、2018年7月30日に登城済で2回目だが、かなり厳しかった山下ノ丸からの登城では無いので、まだ気は楽だ。
当然でも無いが、クマさんが出没する可能性がある。今年の5月に2回ほど目撃情報があったそうで、熊除け鈴を2つ付けて登城開始。9月なのでまだまだ暑い。目的地までは約3㎞くらい、だらだらした舗装道路を行く。車も通行できるような道であるが侵入出来ない。結構、人とすれ違ったりしたので、何となくクマの恐怖は和らいだ。
太閤ヶ平は1581年に羽柴秀吉が築いた付城で鳥取城本丸から東に1.5kmの本陣山(251m)の山頂にある。急な坂道では無いが、汗だくになりながら約50分ほどで到着。夏場は水分など十分な準備が必要なのは間違い無い。
織田信長の中国征伐で対峙する毛利氏とで展開されたのが鳥取城攻めであり、秀吉は2万の軍にて鳥取城を包囲し、兵糧攻めを行った。それは120日にも及び、鳥取城内では餓死者を喰らうと言われるほど苛烈を極めたとされる。
本陣は一辺約50mの規模を持つ内郭を巨大な土塁と空堀が囲んでおり、虎口が2箇所、ハッキリと残っている。これだけの規模にしたのは毛利氏が鳥取城に進軍した場合、信長自らが出陣し、それを迎えることを想定していたのではないか、とも考えられている。
最終的に、鳥取城主の吉川経家は自らの命に替えて城兵を救うという条件で自害し、鳥取城は開城。経家は遺言状にて、「日本二つの御弓矢境において忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」とあった。織田と毛利と言う日本の2つの矢の中での戦で切腹することは末代まで大きな名誉となる、と言う意味とのこと。本陣の外側の空堀跡、土塁。現地で見るともっと迫力があるのだが。
本陣の外からは久松山山頂にある鳥取城本丸が目視でもはっきり見えるので、ここはお見逃し無きよう。山頂右側の木が無いところが天守台跡と思われる。秀吉もこのような眺めを見たかと思うと感動する。
さて、小休止して、ここから鳥取城本丸へと縦走する。距離は2.2㎞、約40分と案内板にあった。全くひと気が無く、嫌な予感がしながらスタート。途中、女性一人だけとすれ違ったが、それ以外に会うことは無かった。結局、鳥取城本丸までアップダウンのある山道をヒイヒイ言いながら行き、30分くらいで到着。今度は逆に本陣山を眺める。山頂に中継所が見える、そう、あそこだ。
前回登城時も思ったが、とにかく、ここからの眺望はほぼ360度、素晴らしい。厳しい道程を登って来た甲斐があるのは間違いなしだ。計5㎞も歩いてきたので疲労困憊、ボーっとしながら少々休んで山下ノ丸へ下ることとした。名残惜しく、天守台跡をもう一度見る。往時には望楼型3重の天守があったとされる。
下山するのも苦しいのが鳥取城だ。急な足場の悪い道をひたすら歩く。トレッキングシューズや登山靴のようなもので登城することを強くお勧めしたい。結局、30分以上かけて安全に下り、山下ノ丸に到着、壮大な石垣を見て終了。結局、太閤ヶ平登城開始から約3時間くらいであった。ようやく終わったと思うも、ここから最初に止めた駐車場まで歩かねばならない。途中、鳥取城大手門である「中ノ御門表門」の復元工事を見ながら、最後の力を振り絞って歩いた。
思ったことだが、鳥取城と太閤ヶ平の両方を登城する場合、鳥取城から太閤ヶ平へ行くのが一般的なようだが、間違いなく、その逆のルートで行くのがまだ楽と思う。とにかく、山上ノ丸まで登るのは大変、まだ下る方がマシ。山上ノ丸から太閤ヶ平へはどちらから行っても同じアップダウンと思われ。
さて、ここまで頑張ったなら、何か記念品が欲しいところ。写真のような御朱印が鳥取市歴史博物館で販売されており、購入した。なかなか良い感じの御朱印、お勧めだ。
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