サラリーマンの日本200名城登城記録

日本100名城、続100名城に興味をもった普通のサラリーマンが綴る登城日記。200名城の制覇は時間、体力、金銭に非常に厳しい旅行。だが、日本の歴史的遺跡・遺物の素晴らしさを知り、完全に登城した時の充実感を感じ、ついでにやたらと歩く運動不足の解消と仕事のストレス発散など、良いところづくめの面白さ。そのようなところを綴っていきたい。

2019年8月12日に100名城、同年10月14日に続100名城を制覇し、合計200城を達成しました!
今後は、スタンプのみの佐土原城とその他の城を登城します。

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2019年のお盆休みを利用して、北海道の100名城&続100名城を巡る中、函館の五稜郭の近くにある四稜郭に寄ってみた。五稜郭からは車で10分程度であったと思う。広い無料の駐車場が有り、そこからすぐに登城できるので、楽チンだ。徒歩では、函館駅からのバスで、「四稜郭停留所」からすぐらしいが、便数が無かったり、やや不便とのことだ。国指定史跡だけあり、綺麗に整備されていたのが印象的。
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戊辰戦争末期の1868年、五稜郭を占拠した榎本武揚らの旧幕府脱走軍は、新政府軍の攻撃に備えて各地に防御陣地を築いた。1869年に、五稜郭の鎮守である北海道東照宮を守るために、五稜郭の北方約3kmにある緩斜面台地に築かれたのが、この四稜郭である。城址碑からすぐのところに、城内唯一の虎口があり、そこから入城。城内が全く見えないほど、周囲の土塁が高い。
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地元の言い伝えでは、旧幕府脱走軍は、士卒役200名と付近の住民約100名を動員、昼夜敢行で僅か数日のうちに完成させたと言われている。それは、蝶が羽を広げたような形の堡塁で、東西約100m、南北約70mとのことだ。16時半過ぎであった為か、人が全くいなかったので、のびのびと整備された城内をゆっくりと歩いた。

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1869年の5月に、新政府軍が箱館総攻撃を開始、旧幕府脱走軍は四稜郭の防御に努めるも、新政府軍に福山藩兵も加わり、さらには、長州藩兵が四稜郭五稜郭の間に位置する権現台場を占領されたため、退路を断たれることを恐れて退却した。そして、すぐに旧幕府脱走軍の榎本武揚らが降伏、箱館戦争は終結した。ここの土塁は幅5.4m、高さ約3mもあり、その周囲は幅2.7m、深さ0.9mの空濠が掘られている。

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箱館戦争後、四稜郭は放置されていたが、昭和期になり、徐々に整備されて現在に至る。この稜堡は構造が良く分かるので、必見だ。
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四稜郭は広くは無いので、10分程度もあれば、全体を見ることが出来るであろう。コンパクトでその構造がわかり易いのが良い。五稜郭訪問後に、是非、訪れたい場所だ。
この日はこれで終了、翌日は、函館から松前方面は向かう。100名城の松前城と、続100名城の上ノ国勝山館だ。
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100名城の98城目は北海道の五稜郭。別名は亀田御役所土塁、柳野城。電車でのアクセスは、JR函館駅から路面電車で「五稜郭公園前」で下車し、徒歩約10分。又は、函館バスで「五稜郭公園入口」で下車、徒歩約10分弱。車では専用の駐車場が有りそうで実は無いが、五稜郭タワーの周囲に有料駐車場が複数箇所あるので、そこから徒歩ですぐだ。
登城日は2019年8月9日。夏のお盆休みを利用しての100名城3城、続100名城2城の計5城を巡る旅の初日で2城目。かつて、2008年の8月に一度、登城経験あり、今回が2回目となる。志苔館を登城後、30分間も掛からなかったと思う。タワーの目の前にある函館市芸術ホールの有料駐車場から。まずは、五稜郭タワーに入り、そのチケット売り場にてスタンプをゲット、外人さんで一杯のエレベーターに乗車。最上階からは五稜郭の全体像、綺麗な星型の形状が確認出来る。
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タワー内で五稜郭の歴史などを学習し、降りて、登城開始は、一の橋から。
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五稜郭は、1857年に築城を開始された日本初の欧州式の稜堡式城郭である。設計者は、武田斐三郎(あやざぶろう)。1853年のいわゆる「黒船来航」により、徳川幕府の鎖国政策(実際には完全に国を閉ざしていたわけでは無かったが。)が崩れ、伊豆の下田と蝦夷の箱館が開港、箱館の防御と蝦夷地の管理を目的に、徳川幕府の命で築城された。城郭内部に入れば、星型から繋がる半月堡が良く分かる。半月堡とは、日本の城で言えば、いわば、馬出しで、五稜郭のそれは石垣で防御され、刎ね出し(武者返し)が付いている。
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一の橋から二の橋を渡り、城内に入る。石垣が所々にあり、半月堡と同様に、武者返しがある。
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1857年に着工した築造工事は、堀や石垣等の土木工事、治水工事、城郭内での役所や附属施設の建築などで、ほぼ工事が完成したのは1864年であった。そして、箱館山の山麓にあった役所を移転し、「箱館御役所」(通称は、「箱館奉行所」)となった。現在のものは、平成22年、調査により忠実に復元されたものであるとのこと。奉行所内部は、見学コースとなっており、映像や復元物など、エンターテイメント性が高いものになっている。
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奉行所の周囲には、遺物の跡が明示されている。
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その後、五稜郭は1867年の大政奉還の翌年1868年に勃発した戊辰戦争の最後の舞台となる。この戦争は、明治初期の新政府軍と旧幕府軍の戦い。旧幕府軍は抵抗の末に蝦夷地を平定、そのトップの榎本武揚が箱館政府を樹立し、総裁となった。五稜郭の見所の一つとして、四方に張り巡らされた水堀がある。
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だが、その後、新政府軍の猛攻にあい、1869年の箱館総攻撃によって、旧幕府軍は土方歳三などを失い、最終的に榎本武揚らが降伏するに至った。登城した場所から、全く正反対の登城口にも城址碑があった。
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明治期以降は、旧日本軍の所管となり、主に、練兵場としいて利用された。面白い遺構として、大砲を運んだとされる坂が城内五箇所にある。箱館戦争時に作られたものとされる。
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また、面白いものとしては、「見隠塁」がある。中を見られないようにする土塁で、城内に3か所ある。確かに、この土塁の向こうに奉行所があるが、虎口からは見えない構造になっていた。
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五稜郭は、タワーに昇り、城内の見所をほぼ全て廻って、1時間半程度であった。非常に貴重な欧州式の城郭なので、ゆっくつとその構造、縄張りを見て廻るのが良いと思う。平坦な平城なので、楽に歩けるし、所々に説明もあるので、その歴史的な意味を理解できると思う。
この時点で16時となっていたが、この日最後として、近くにある五稜郭ならぬ四稜郭に行くことにした。勿論、100名城でも続100名城でもない城址だ。
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続100名城の97城目は北海道の志苔館(しのりだて)。別名は志濃里館(しのりだて)。電車でのアクセスはJR函館駅前停留所から、函館バスで志海苔停留所下車(約35分)、停留所からは約260m 。車では少々困る。城址には駐車場はなく、入り口付近の道も狭い。付近で駐車出来る場所を探して、徒歩で向かうのが良い。
登城日は2019年8月9日。夏のお盆休みを利用しての100名城3城、続100名城2城の計5城を巡る旅の初日。中部国際空港から函館に飛び、空港からレンタカーで13時半過ぎに到着。透き通るような青空、少々暑いが爽やかな気温が本当に嬉しい。前述の通り、駐車場が無いので、まずは登城口を確認の上、駐車出来そうな場所を探してから、徒歩で向かった。登城口の奥の方に城址碑と案内板があった。
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登城口からすぐに休憩用の小屋があり、そこに続100名城のスタンプがある。続100名城の一番目、【101番】だ。記念すべき北海道の名城の1城目。
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志苔館の正確な築城時期はわかっていないが、松前藩の史書で津軽安東氏の家臣であった小林良景が築城したとのことで、その記述などから、14世紀の後半~15世紀の初頭と推定されている。登城口は二重の堀と橋、門があったとされる。
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志苔館は、安東氏が作ったいわゆる「道南十二館」の最東端にある館で、1456年からのコシャマインの戦いにて、陥落したとの記述があるとのこと。高い土塁を抜けると、郭内に入ることになる。調査によれば、中国と国内の陶磁器や金属類、石などが出土している。
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更に、1512年には、同じくアイヌのショヤコウジ兄弟の戦いでも再度、陥落する。この後は、館主の小林氏が松前藩に従属、志苔館が歴史の記録に登場することはなく、ここで事実上の廃館となったものと推定されている。主郭は、発掘調査の結果、複数の建物跡や井戸跡、柵跡や虎口などが確認されている。
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主郭は高い土塁で囲われている。その土塁の上に行き、海側を撮影。
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主郭内は綺麗に整備されていた。古い城址碑もあるので、是非、現地にて確認して頂きたい。
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更に、山側も撮影。とにかく、猛暑の名古屋から来たこともあり、最高の心地良い気分に浸った。
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城郭の東側にある土塁は、かなりの迫力がある高さ。
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土塁の上から周囲を見下ろすと、ここの縄張りが分り易かった。城内は主郭部のみで、城外も土塁と堀がある程度なので、これで、終了とすることにした。
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志苔館は広くも無いし、見所も少ないので、さっと、廻れば最大でも20分ほどと思う。歴史的には、和人とアイヌの闘争の場と言う点での価値はあるかと思う。城しては、高い土塁と堀、主郭部の遺構などくらいを見る程度。案内板はそれなりにあるのが有難かった。
この後は、日本100名城の五稜郭へ向かう。
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続100名城の96城目は兵庫県の出石城(いずしじょう)有子山城(ありこやまじょう)出石城の別名は石城(せきじょう)、有子山城は高城(たかしろ)。電車でのアクセスは、JR豊岡駅から全但バスで約30分乗車し、「出石」で下車、そこから、徒歩で約5分。車では、城址近くに有料駐車場があるし、コインパーキングもある。観光地なので、土日や祝祭日は少々混みそうだが、駐車料金を気にしなければ、どこかには止められるであろう。
登城日は2019年5月26日。午前中に山城の黒井城を登城後に向かった。久々の山麓と山上のセットもので、100名城には無いが、続100名城では、「大内氏館・高嶺城」とここの2つだ。最も城址に近い駐車場に車を止め、その目の前にある「いずし観光センター」に行き、スタンプを押印。とにかく、5月末の割には、猛烈に暑く、ここで涼んで小休止後、出石城へ。登城橋には観光客が多かったが、一瞬のスキを突き、撮影。ただ、当時、このような橋や門はなく、埋門があったとされる。
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歴史的には、出石城よりも山上の有子山城の方が先に築城された。1604年に、有子山城が廃城となったことで、小出吉英(よしふさ)が出石城を作った。右に西の曲輪、左が二の丸の石垣、奥に西の隅櫓(昭和期の復元)、これらを眺めながら進んで行く。
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小出吉英の代でほぼ完成し、松平氏、仙石氏が入った。1615年の一国一城令で、ここ但馬国では、出石城のみとなった。本丸と二の丸の間にある渡櫓跡を抜けて、二の丸跡へ。役所が建っていたとされる場所。
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最終的に、明治元年の1868年に廃城となり、全ての建物は取り壊しとなった。その後、1968年に復元された東の2層の隅櫓。同様に、前述した西にも隅櫓がある。当時は、本丸東端、二の丸東西の合計3基、更には、本丸西に多聞櫓が建っていたとされる。
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現在の本丸はこのような感じで、当時は城主居館が建っていた。尚、本丸からは、お城坂と言う稲荷参道に入れ、それは、有子山城の登城口に繋がっている。
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本丸の最上部にあるのが、稲荷曲輪。曲輪内に有子山稲荷社があり、江戸後期のもの。ここからの眺望は高くは無いものの、市内を見渡すこと湖が出来る。又、稲荷曲輪の高石垣は13.5mの雄大なものなので、訪問の際には、見逃さないよう。
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さて、出石城の稲荷曲輪の奥に、このような案内があり、ここが有子山城への登山口となる。有子山は標高321m、前日に登城した黒井城は365mなので、それよりは低いとちょっと安心。すぐに、「これより先、熊が出没することがあります。入山者は注意して下さい。」との案内が有る。すかさず、鈴を2個装着し、恐れながら進んで行く。
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有子山城は、1574年に但馬国守護の山名祐豊(やまなすけとよ)が築城した。東西740m、南北780mもある巨大な城郭だ。山頂付近は、詰の城とされ、山麓に平時の住まいとする居館や郭が設けられた。登城路はどうやら尾根伝いのようで、左右は崖っぽく(もちろん、すぐに落ちるようなものでは無い。)、かなりの急坂。道の右側に補助ロープがあるが、最初は、「こんなもん、使わなくて行けるわ。」と思って踏ん張るも、すぐに無理と悟り、ロープを掴みながら、登って行くことにした。こういうこともあるので、軍手か手袋を持参ってくるんだった、と後の祭り。「この暑いのに、そんなもの、持って来ないわな~。」と思う。
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登城路の足元も整備されていないわけでは無いが、石がゴツゴツとしており、歩きにくかった。足を挫かないように注意が必要と思う。登城後、30分弱で、ようやく、井戸曲輪(水の手)に到着。全国的に珍しい7段の石垣で、ここで城内の飲料水を確保していたとされる。
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1580年山名堯熙の時に羽柴秀吉の攻撃を受けて有子山城は落城、城主となった羽柴秀長が石垣の城へと改修。その時のものと思うが、井戸曲輪から数分で主郭部の下にある曲輪に到着。野面積みの石垣がかなりの範囲で残っている。
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1615年、一国一城令により、廃城となり、歴史から姿を消すことになる。圧巻の主郭の石垣と虎口。約4mあるとのこと。ようやく、厳しい登城が終わるとの達成感を感じ始める。
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有子山山頂の主郭部に到着。ここの南側に天守台跡と土塁が残っている。休憩所に説明版があり、ようやく、一服付ける。
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ここからは、出石城は勿論、出石の街並みを見ることが出来る。目視で可能だ。
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とにかく、ここからの眺望は素晴らしいので、晴天の日に是非、登城して欲しいと思う。
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このような場所に石垣を作ったことに感謝せざるを得ない。
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裏に回ると、崩落している石垣があった。いつも思うが、安全の為に修復するのが良いのか、自然のままに残すのが良いのか、いつもながら、考えさせられる。
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出石城登城スタートから1時間20分ほど、有子山城登城から1時間経過、16時を過ぎたので、急ぎ、奥にある千畳敷へ向かう。途中、主郭と千畳敷を隔てる大堀切を見て、千畳敷をパッと見て、折り返しの下山することとした。この堀切、かなりえぐい。幅28m、深さは12mあるとのこと。
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下山する際は、急坂なのでかなり大変。ゆっくりと安全にロープを利用して降りると良いと思う。結局、約50分ほど掛かり、ようやく、山麓に到着。その後、少しだけ、出石の街並みを散策した。1871年に建立された辰鼓楼はここの観光のシンボル。この付近に大手門があったとされる。
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改めて、山麓から、登城した城址を見る。出石城は右の石垣の辺り、有子山城は、写真中央上部に僅かに見える休憩所の屋根のところ、あそこが主郭だ。まあ、よくあんなところまで登ったものだと、自分で自分を誉めたくなること間違いなし、是非、下山後に眺めて頂きたいと思う。(尚、登城前に眺めると、心が折られる可能性あり。)
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出石城はともかく、有子山城は、100名城・続100名城の中で、自分の中では、鳥取城八王子城と並ぶレベルの登城が厳しい城址と思う。山麓の出石城を見て、山頂の有子山城の主郭まで往復で、最低2時間は必要と思う。登りでロープに頼らざるを得なかったのは、これが初めてだし、下りは油断したら、滑り落ちそうになるほどであった。山麓の出石城と相対する山城の存在、有子山城の登山の厳しさ、石垣や大堀切や曲輪の歴史的な価値、その眺望の絶景さ、出石と言う歴史的な観光地(但馬の小京都と呼ばれる。)であることなどから、★★★★★とした。
さて、この5月末の段階で100名城で残すは北海道の3城、続100名城は北海道2城と長崎離島2城(対馬、五島)の4城、計7城となった。8月のお盆休みに北海道へ飛び、100名城達成と続100名城の2城を制覇する予定。6月、7月の登城は小休止とした。
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続100名城の95城目は兵庫県の黒井城。別名は保月城(ほげつじょう)、保築城(ほづきじょう)。電車でのアクセスは、JR黒井駅から登山口まで徒歩で約10分。車なら、登城口に無料駐車場がある。あまり多くの台数が停められるような広さでは無かったと思う。
登城日は2019年5月26日。前日に佐柿国吉城福知山城の2城を訪問し、福知山市内に宿泊、朝に兵庫県丹波市まで車で移動。その途中、春日住民センターに寄り、スタンプをゲット。登城開始は11時前であった。城址は、猪ノ口山の山頂にあり、標高は約365m。登山なるので、それなりの靴や水分等の準備が必要だ。又、登城路は二つのルートがあり、「急坂コース」、「なだらかコース」とある。前者を選択、山の名の通り、「猪」でも出そうな雰囲気なところからスタート。こちらが大手道だ。
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黒井城は、1335年、丹波国氷上郡に所領を与えられた赤松貞範が山頂に簡素な城を築いたことから始まる。登り始めて数分で猪よけの柵があり、鈴を2個装着し気合を入れて行く。登城路自体は整備されているが、いかんせん、急な坂道で結構、シンドイ。道の脇は木々が覆い茂っており、獣がいてもおかしくは無い感じだ。本丸などがある本城部への道中にある三段曲輪跡は、最上部から見下ろすと段差が分かり易いと思う。
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その後の200年間で城主が多く変わるが、1554年、萩野悪右衛門直正(赤井直正、萩野直正)が城主となり、勢力拡大とともに、城の大改修を行ったとされる。それが、現在の黒井城の原型である。山麓から山上までの登城距離は約800mくらいであるが、要所要所で残りの距離表示があるので、励みになる。途中、太鼓の段、石踏みの段を通ることになる。下の写真は太鼓の段で、特に遺物等はあるわけではない。
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萩野直正は、その後に織田信長に服属するが、離反。1575年からの明智光秀の丹波平定で最後の最後まで抵抗をし続けたが、最終的に光秀の大軍で落城となった。登城開始から約30分後にようやく本城付近へ。残り約100mくらいのところに、再び、猪よけの柵がある。足元に注意しながら、進んで行く。
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落城後は光秀の重臣であった斎藤利三などが入り、本城部に石垣を築いたのではないか、とされる。まず、本城でいきなり、目に入って来るのが、東曲輪跡の野面積みの石垣。道中は木々と土しかないので、いきなりの人工の遺物登場に感動すると思う。又、ここまで来ると周囲は開けており、四方周囲、壮大な景色が楽しめるので、是非、ゆっくりと散策を楽しみたい。逆に、降雨だと悲惨、ほとんど雨除け出来ないので要注意だ。
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1584年の小牧長久手の戦いに関連し、赤井氏残党が籠城するも、戦後に完全に廃城となった。東曲輪の上には三の丸があり、そこにも石垣有り、更には空堀があり、二の丸から本丸にかけては、この素晴らしい石垣が残る。
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最高位置にある本丸には城址碑がある。ここに建物が建っていたか否かは明らかでは無いが、屋根瓦が周囲から大量に発見されていることから、何らかの建築物があったのではないか、と思われている。
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ここからの眺望は素晴らしいの一言。晴天であれば、もっと良かったと思う。ここまで登って来た疲労感も吹き飛ぶ感じ。
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本丸全景は細長くい構造。ご覧の通り、木々は少ししかないので、夏場は日除けも出来ず、降雨時はどうにもならない。
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更に、二の丸から本丸はこんな感じで、上述した通り。ただ、ここの爽快感はしばらくのんびりと昼寝でもしたい気分になる。少々、名残惜しくも登城して1時間弱となったので、下山する。
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下山ルートは「ゆるやかコース」で。少々、急ぎ足でも15分ほどは掛かったと思う。下の写真が「ゆるやかコース」の登山口。
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黒井城は、「急坂コース」での登り、「ゆるやかコース」で下って、約1時間30分弱だった。登城路は整備され、案内もあるので、山中なれど、迷うことは無かろう。ままシンドイ登山になるが、山頂付近の石垣や曲輪、虎口の残り具合は、中世の山城と近世の城郭が相交じり、その残り具合には感動を覚えた。要所で説明版があれば、更に詳しく楽しむことが出来ると思う点だけが、残念な点。
この後は、出石城・有子山城のセット城址へ向かう。出石城は、一度、登城したことがあるが、有子山城は今回が初、噂にききし、厳しい登城が待っていた。
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