サラリーマンの日本200名城登城記録

日本100名城、続100名城に興味をもった普通のサラリーマンが綴る登城日記。200名城の制覇は時間、体力、金銭に非常に厳しい旅行。だが、日本の歴史的遺跡・遺物の素晴らしさを知り、完全に登城した時の充実感を感じ、ついでにやたらと歩く運動不足の解消と仕事のストレス発散など、良いところづくめの面白さ。そのようなところを綴っていきたい。

2019年08月

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続100名城の91城目は山梨県の要害山城。別名は要害城、積翠山城。アクセスは電車では、JR甲府駅から山梨交通バスで約20分の「積翠寺」停留所で下車し、徒歩15分。車なら、城址の登城口に広くは無いが、無料の駐車場があり、楽チンだ。
登城日は2019年5月6日。GW10連休を利用しての東北&関東&甲信地方の100名城、続100名城、その他の城の合計22城を巡る旅の8日目、計20城目。5月5日に千葉を出発し、夜に甲府入り。翌日、まずは、朝一番で、甲府駅前にある「藤村(フジムラ)記念館」に行き、スタンプをゲット。内部を少々、観覧し、城址へ向かう。尚、100名城の甲府城が目の前にあるので、お忘れなく。確か、車で10分程度で到着、登城口の駐車場に止めてスタート。登城と言うよりは、要害山という770mの山登りとなる。山頂までは徒歩約30分とのこと、山城なので自販機があるはずもなく、夏場などは水分を準備されたし。
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登城路は整備されているが、周囲は5月でも草が元気に生い茂っている状態だった。ちょっと、ケモノが出てきそう感じがしなくもない。
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要害山城は、1520年に武田信虎が築いた山城である。居館や政庁などがあった山麓の武田氏館(躑躅ヶ崎館)に対して、緊急時に立てこもる詰の城として作られた。城内には土塁や竪堀跡などが当時のままとのことであるが、木々が生い茂っており、イマイチ、わかりずらかった。
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少し上がって行くと、大小多くの曲輪跡が残っている。説明板があるので、場所は確認できると思う。
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そして、主郭までは8つもの門跡があり、堅固な防御となっているのが分かる。1つ1つをゆっくり見ながら行けば、登山の苦しさも紛れるかも知れない。
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登城開始して、やはり30分ほどで山頂の主郭に到着。要害山城は、武田家3代(信虎、信玄、勝頼)に渡り、使用された。最初の信虎の頃に、福島氏に攻められたが、懐妊していた正室をここに避難させ、城内で信玄を産み落としたとされる。その記念碑が建つ。
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主郭部は土塁で囲まれ、庭園などに使用される石も残っている。その他には、山梨百名山の碑もあるので、お見逃し無きよう。
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武田氏が滅亡すると、徳川家が入り、その後、豊臣系の大名が城主となる。加藤光泰が城の改修を行ったとのこと。770mを登って来たので、眺望を楽しみにしていたが、残念ながら、このような感じ。
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1600年の関ケ原の戦い後、再び、徳川の領地となり、その際に廃城となった。主郭部周辺に残る堀切跡と石垣。元禄年間に修築されたとされる穴太積み(あのうづみ)だ。
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山を下る途中にある井戸は、今でも1年を通して水が絶えることないとのこと。
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要害山城は山麓からの往復で1時間少々であった。登城路は整備されているので、歩き易いと思う。ただ、もう少し、周囲の木々を伐採すれば、もっと、曲輪や土塁、竪堀などの遺構が良く分かると思う。
この後は、続100名城の新府城というのが流れだが、少々、時間があったので、100名城でも続100名城でもない湯村山城に行くことにした。
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19年GWの旅行で東北地方の100名城、続100名城を巡り、千葉の大多喜城に登城後、近くにある久留里城に寄った。別名は、雨城、霧降城、浦田城。電車でのアクセスは、JR久留里線の久留里駅で下車し、徒歩35分。車なら、城址入口付近に、広い無料駐車場があるから安心だ。
登城日は2019年5月4日。GW10連休を利用しての東北&関東&甲信地方の100名城、続100名城、その他の城の合計22城を巡る旅の7日目、計19城目だ。駐車場からの登城路は3つある。そのうちの2つは舗装路を行くか、山の中から行くかである。
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舗装路から行くと、道と平行に並ぶ曲輪が見れないので、山道を行くことにした。火薬庫跡や堀切があるので、こちらを行くのが良いと思う。決して、イノシシとか出るような感じではないし。
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久留里城は、1456年に上総国の守護代であった武田信長が築城し、この頃は、古久留里城と呼ばれている。戦国期には、武田氏から里見氏に城主が変わったりしている。二の丸へ向かう途中、いくつかの堀切がある。ただ、草木が元気良過ぎて、イマイチ、わからず。
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1535年、この地を本拠とした里見氏は古久留里城の下に久留里城を築城した。1554年には北条氏の攻撃を受け、10年後に落城するが、すぐに里見氏は取り戻している。二の丸にある長屋塀(復元)は古地図に記載があり、発掘調査で礎石が見つかっている。
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二の丸にある薬師曲輪跡からは、三の丸が眼下に見下ろせ、眺望も素晴らしかった。多分、本丸・天守からよりも、ここからがこの城址で最も景観が良いと思う。
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二の丸には資料館があるが、16時30分までとのことで、すでに閉館で入ることは出来なかったのは残念。仕方なく、急ぎ、本丸へ向かう。途中にある「男井戸女井戸」。久留里城は、「城の完成後、3日に一度、21回雨が降った」など、非常に雨が多かったこと、また、湧き水も豊富であり、籠城に苦労しなかったとされる。今でも水が湧き出ている。
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1590年、豊臣秀吉の小田原征伐の際、里見氏は秀吉の命に従わなかったことから、上総国を没収されていしまう。以降、関東は徳川家康の所領となり、ここ久留里城は松平氏が入った。1680年に、一旦、廃城となるが、1742年に黒田氏が入り、明治期まで居城し、1872年に完全に廃城となった。現在、本丸には1979年にRC作りの模擬天守が建っている。1724年に2層2階の天守が作られたとのことであるが、現在は2重3階で異なる。また、これは1958年に作られた浜松城の模擬天守を模したものとのこと、確かにソックリである。
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天守内部は特に見るべきものはなく、最上階から景観を見るくらい。二の丸からの景観の方が良く、ここから見るべきは、隣にある天守台跡。1743年から1746年にかけて、黒田氏が作ったと推定されているものだ。これがこの城最大の見所と思う。
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久留里城は駐車場から本丸までの往復で40分ほど、資料館を見るのであれば、1時間は必要であろう。思った以上にダラダラと歩いて行くので、夏場などは少々、シンドイかも知れないが、堀切や土塁、天守台跡など、地味ではあるが、よく遺構が残っていると思う。解説もそれなりにあるので、理解しやすい。100名城でも続100名城でも無いが、訪れて損は無い城址だ。
これにて、この日は終了。千葉の実家で少々、休息を取り、5月5日に名古屋へ戻るが、中央高速から帰り、山梨の続100名城の2城、難攻と言われる要害山城と、新府城の2城に向かう。
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続100名城の90城目は千葉県の大多喜城。別名は小田喜城、大滝城。アクセスは電車なら、いすみ鉄道の「大多喜駅」で下車し、徒歩で約15分、又は、JR外房線茂原駅から小湊バス大多喜行きで「久保」で下車し、徒歩約20分。車は、城址近くに有料駐車場があり、そこを利用すると良い。
登城日は2019年5月4日。GW10連休を利用しての東北&関東&甲信地方の100名城、続100名城、その他の城の合計22城を巡る旅の7日目、計18城目。駐車場に止め、そこからは、ダラダラと緩やかな坂道を行く。
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大多喜城は、1521年に真里谷信清(まりやつのぶきよ)が、「小田喜城」として築城したとされる。その後、武田氏や安房の里見氏の重臣であった正木氏などが入った。少し歩くと、二の丸公園があり、その周辺にはこのような大きな空堀がある。地味に見どころの一つ。
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そして、1590年の豊臣秀吉の小田原平定後に、徳川家康が江戸城に入るが、その四天王であった本多忠勝がここ大多喜城に入り、中世のいわば、「小田喜城」を近世城郭へと大改修したとされる。本丸には復元された土塀がある。
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本丸に残る土塁は、当時の面影を微かに残している。
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城主となった本多忠勝は突貫で工事を行い、3層4階の天守を建造、また、城下町も整備したとされる。これは上総の国の南部に位置する里見氏の北上を阻止するためであった。現在の天守は1975年に作られた模擬天守で、現存する資料と江戸時代の一般的な天守を参考に推定されたもので、実際のところ、大多喜城に天守があったか否かはハッキリとしていないとのことだ。尚、今は、「千葉県立中央博物館 大多喜城分館」というのが正式名称、ここでスタンプをゲット出来る。
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説に寄れば、1842年に天守が焼失し、その後は代用の「神殿」と呼ばれる建物となったそうであるが、一方で、江戸期の記録に、天守の存在の記載がなかったり、1609年に訪れたスペイン人のドン・ロドリゴは、後に「日本見聞録」で、大多喜城の壮麗さの記載はあるも、天守の存在に触れていないなどの理由で、天守が存在していなかったでは?との主張もある。現天守内部は、展示物などの資料が豊富に展示してあり、最上階からは城下を眺めることが出来る。
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明治期の1871年に廃城となり、本丸も削平されてしまし、大多喜城は歴史から姿を消すことになる。今となっては、現存遺物は2つしか残っていない。まずは、二の丸に残る大井戸、「底知らずの井戸」と呼ばれ、周囲17m、深さ20mで日本一。本多忠勝の改修の際に作られたものとされる。
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もう一つが大多喜高校にある二の丸薬医門。二の丸御殿の門であったとのことだ。
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大多喜城は天守内部の資料を見て、見所を廻って駐車場からの往復で1時間程度であった。登城路はほぼ全て舗装されているので、気楽に訪問出来る城址。目玉となる見どころがないのが残念、折角、遠方から来るのであれば、城下町に加えて、養老渓谷やいすみ鉄道なども楽しむのが良いのでは無いかと思う。
この後は、ついでに、近くにある100名城でもなく、続100名城でもない久留里城へ向かった。
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続100名城の89城目は千葉県の本佐倉城(もとさくらじょう)。別名は将門山城。電車でのアクセスは、京成線の京成大佐倉駅から徒歩10分、京成酒々井駅からは徒歩20分、JR酒々井駅から行くなら、徒歩25分くらい。車の場合は、城址前(城山)に無料の駐車場がある。
登城日は2019年5月3日。GW10連休を利用しての東北&関東&甲信地方の100名城、続100名城、その他の城の合計22城を巡る旅の6日目、計17城目。午前中に茨城県つくば市の小田城を訪問した後、スタンプのある京成大佐倉駅に到着したのは14時くらいだった。スタンプは、酒々井町中央公民館にもあるが、この日は祝日で休館日、大佐倉駅の改札出たところにあるスタンプ台で押印した。大佐倉駅前には、駐車スペースは無いが、ちょっとだけ、駅前に「停車」して、スタンプを押すことは可能と思う。(ただ、目の前は民家なので、速やかに立ち去るべき。)ここからは徒歩10分程度と言うことなので、駅にある有料の駐車場(4台くらい可能?)に止めて、歩いて向かうことにした。途中、田んぼの中をゆっくりと歩き、10分程度で登城口に到着。地元のボランティアと思われる方々が、結構、いたのが印象的だった。
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本佐倉城は、下総国の守護であった千葉輔胤(すねたね)が1469年~1486年の間に築城したとされる。登城口からは、城山と模擬の矢立が見えて来る。
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関東有数の大名となった千葉氏は9代に渡り、ここを本拠地とした。城下町も整備し、下総国の中心として繁栄した。登城して行くと、右側に小高くなった場所があり、ビューポイントと紹介。ここからは一面の田んぼと線路、筑波山などが望める。風を感じてなかなか気持ち良い場所。
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東山虎口などを見て戻り、城山方面へ向かう。その途中にある城山と奥ノ山を隔てる大堀切。かなりの迫力。
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千葉氏の栄華は、1590年の豊臣秀吉による小田原攻めにより、終焉を迎える。この時に、小田原北条氏の配下であった千葉氏も北条氏同様に滅亡、本佐倉城は、徳川家康の支配となった。高低差7mある城山通路を抜けると、虎口跡に到着する。
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徳川時代には、小笠原氏や土井利勝が居住し、佐倉藩の藩庁が置かれたが、1615年、藩庁が佐倉城に移され、また、一国一城令により、廃城となった。城山はこの城のいわば、主郭にあたるとされる。発掘調査では、主殿と思われる大型の掘立柱建物跡、櫓跡、門跡、塀跡、土塁跡、庭園跡などが見つかっている。
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城山を後にして、奥ノ山へ。別名、妙見宮郭と言われ、基壇の跡も発見されている。
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そして、倉跡へ。広大な郭で、大型の掘立柱建物(倉庫)が広範囲に存在し、また、陶磁器や鍛冶道具なども見つかっていることから、倉庫だけではなく、居住空間もあったものと考えられている。
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残る郭は2箇所。まずは、東光寺ビョウ。城の北側にあり、2つの物見台がある広大な郭だ。クマはいないが、イノシシはいる模様。
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ビョウの先にあるのが、セッテイ山という郭。人質郭、又は接待郭と推定されているらしい。ここの空堀は凄く、城内で最大で最大高低差16m、最大幅は7mとのこと。如何にもイノシシが出没しそうな雰囲気のところであるが、是非、現地にて見てもらいたいと思う。なお、ビョウとかセッテイとか意味不明な単語であるが、どうやら、江戸時代の古地図にそのように表記されているからだそうだ。
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本佐倉城の散策は約45分ほどであった。非常に広大な平山城で、各郭、縄張りが非常に分り易く構成されている。城内は綺麗に整備され、案内や説明もしっかりあるので、山城好きなら、楽しめる城址と思う。地元のボランティアと思われる方の案内もやっているので、是非と思う。
これにて、この日は終了。実家に帰って、翌日は同じ千葉の続100名城の大多喜城を登城する。
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19年GWの旅行で東北地方の100名城、続100名城を制覇し、実家の千葉に帰省する途中に、茨城県つくば市にある小田城に寄った。電車でのアクセスは、つくばエクスプレスのつくば駅から、「つくバス」小田シャトルで「小田東部」、「小田中部」で下車し、徒歩約5分くらいで到着。車なら、城址前の小田城跡歴史ひろば案内所に無料の駐車場があるので、それを利用するのが良い。
登城日は2019年5月3日。GW10連休を利用しての東北&関東&甲信地方の100名城、続100名城、その他の城の合計22城を巡る旅の6日目、計16城目だ。マイカーでの訪問だが、駐車場に迷った。細長い路地に迷い込んだり、同じ道を何度も行ったり来たり。近くにコインパーキングも無く、ようやく、たまたま見つけた登山者用の駐車場に止めて、5分くらい歩いて城址へ。小田城跡歴史ひろば案内所にパンフレットは勿論、分かり易い模型もあるし、小田城についても学習できるので、まずはここを訪れたい。

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小田城は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、常陸国南部に勢力を持った小田氏の居城であった。そもそもの築城主は、1185年に小田氏の先祖であった八田知家で、常陸国の守護になった際に居館を構えたことによるものとされている。本丸への登城ルートは複数箇所あるが、東曲輪側から。城址碑と水堀、橋がある。
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南北朝時代は南朝について、常陸南部における南朝の拠点となった。東池跡などが再現されている本丸の東側にこの城址で最も高い場所と思われるところがあり、そこから筑波山を撮影。
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戦国時代に入ると、小田氏は、佐竹氏や越後の上杉謙信、小田原北条氏などとの争いになった。1564年の山王堂の戦いで上杉謙信に敗れるなどの後、小田城は佐竹氏の手に落ち、その配下などが城主となった。最終的には、1602年に佐竹氏の秋田移封により、廃城となった。ここから、本丸南西にある虎口跡へ。当時は石垣があり、門もあったと発掘調査で確認されている。
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虎口の先にある南西馬出は、広大で50m四方、土塁は約5mあり、周囲を水堀で囲んでいた。
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本丸は南北550m、東西450mに及び広大である。北東の少し高くなったところから本丸中心部を見る。
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中心部には建物域があり、大きい溝で区画されていたと言う。その全貌は明らかでは無いが、特定された跡だけを表示している。
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小田城本丸の周囲は堀で囲まれている。水堀となっているのは、東側のみで、その他は水は無い。左が東曲輪、右が本丸。その間に水堀があり、中央の木橋で繋いでいる。
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その他に、北西隅に土塁・堀跡の高さを記したトンネルのような場所があるので、それを見るのが分かり易いと思う。
小田城の見所を一通り廻って、早ければ30分程度と思う。非常に綺麗に整備されているので、縄張りも分かり易い平城の城址だ。ただ、あまり木陰が無く、日に照らされ続けるので、夏場などは暑さに注意。GW期間の登城であったが、まま、厳しかった。
この後は、千葉の続100名城の本佐倉城へ向かう。
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2019年のお盆休みを利用して、北海道の100名城、続100名城廻りをしている。そして、100名城制覇の旅、最後の旅でもある。8月9日に五稜郭、10日に松前城、今日12日、いよいよ、最終地の根室に向かう。中標津から1時間程度、車で走り、ここ、根室市観光インフォメーションセンターに到着。
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中に入り、受付で、最後のスタンプを慎重に押印した。そして、落ち着いてベンチに座り、全100名城を本当に押印したのか、今更ながら、全スタンプを確認する。これでやっと終わった。。長かった。。。達成感と言うより、安堵感と言うか、少し、寂しさも感じたのは不思議であった。
少ししてから、センター内にあるお土産を見回り、記念に、根室のTシャツ、100名城のバッジと絵馬を購入。すると、レジのおじさんが、「達成したのですか?」と聞くので、「ようやく、終わりました。」と言うと、達成者のみが貰える「祝!日本100名城達成記念」のオリジナルステッカーをくれた。また、記念写真を撮ってくれるとのこと、「祝!日本100名城達成記念」も垂れ幕(ステッカーと同じデザイン)を持った自分を、撮ってもらった。
この後、近くにある根室半島チャシ跡群を2箇所登城、これで、日本100名城の登城達成となった。
思えば、100名城のスタートは、2017年10月3日の弘前城から彼是、約2年弱。時間、お金、体力など、本当に苦労した。今思えば、もう少しゆっくり、じっくりと城址を鑑賞すべきではなかったかとは思うが、会社員である以上、限られた時間の中で遠征すると、どうしても効率を優先せざるを得ない。名古屋から遠くまで何回も何回も往復するわけにもいかないし。それでも、小谷城を除いては、当初から目標としている天守や本丸、山城の頂上など、その城の行くべき、最も見るべき場所には全て、行くことが出来た。
だが、本当の登城完了と言うことでは、スタンプのみの小谷城が残っているし、続100名城は、難攻とされる長崎県対馬市にある金田城と五島市の福江城の2城が残っているし、スタンプのみも4城(鎌刃城、佐土原城、能島城、新高山城)ある。これらを登城をし、真の喜びを感じたいと思う。
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2019年のお盆休みを利用して、北海道の100名城、続100名城廻りをしている。8月9日に100名城の五稜郭、続100名城の志苔館、10日に、100名城の松前城と続100名城の上ノ国勝山館を登城し、今日11日に中標津に入った。残すは明日12日、最難関と言われる根室半島チャシ跡群に行く。これで、いよいよ、100名城の最後、完全登城となる。明朝、中標津から根室駅に向かい、最後のスタンプをゲットした時、果たしてどのような思いになるのであろうか?
それにしても、ここ中標津の気温は17℃で、少々、寒いくらい、名古屋の35℃の半分だ。(笑)
いずれにしても、楽しみにしながら、本日は、早く寝ることにする。


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19年GWの旅行で八戸城九戸城の2城を登城後、青森県から南に下る途中にある岩手県盛岡市にある志波城に寄った。別名は斯波城。城址前に志波城古代公園案内所というのがあるので、そこに駐車し、無料の案内所内で少々、勉強して登城。
登城日は2019年5月2日。GW10連休を利用しての東北&関東&甲信地方の100名城、続100名城、その他の城の合計22城を巡る旅の5日目、計15城目となる。
志波城は、平安時代の803年に、征夷大将軍であった坂上田村麻呂が造営した古代城柵である。100名城でも続100名城でも無いが、国の指定史跡であり、志波城古代公園として綺麗に整備されている。
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城に入る手前に橋が架かっており、早速、深い堀がある。
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志波城は陸奥国最北の城柵であったとされ、当時の大和朝廷が支配した最前線であった。木橋から門を眺める。
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当時の朝廷による支配に抵抗したのが、東北地方の蝦夷。志波城はその戦いの場所であった。正門であった外郭南門は、古代の建物や絵図などを参考にして復元されたもの。近くで見るとかなりの規模の櫓門である。そして、見逃してはならないのが、古代の版築技術を用いて再現した外郭築地塀。一辺840m、四方で3,360mもある。
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門をくぐると、竪穴式建物群が復元されている。何と、1,200~2,000個あるとされ、遠征に来た兵士の宿舎や武器倉庫などに使用されていたとのこと。
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811年に蝦夷との大規模な戦争が起きるが、水害もあり、翌年に徳丹城が造営され、志波城は僅か10年弱で廃城になったとされる。ただ、城内は広大の一言で、その規模は、徳丹城は勿論、あの100名城の多賀城よりも大きかった。
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中心には政庁がある。東西南北に門があり、これは政庁の東門。
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これが、城内にある建物の礎石跡。中心には正殿があった。

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志波城は見所を全て廻って30分程度だった。とにかく、広大で、平野にあるので、強風であったこの日は風が物凄く強かった。真冬などは相当の寒さであろうと思う。ただ、城内は非常に綺麗に整備され、説明版も充実しているので、理解しやすいと思う。古代城柵を経験すると言うことでは非常に良い場所だ。
これで、この日は終了、福島県のいわき市に宿泊、翌日は茨城県つくば市の小田城に向かう。
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続100名城の88城目は岩手県で唯一選定されている九戸城。別名は福岡城。電車でのアクセスは、JR二戸駅からバスで約5分「呑香稲荷神社前」で下車して、徒歩で5分ほど。車なら、城址前にある九戸城無料休憩所(ガイドハウス、三の丸跡)に広い無料の駐車場があるので、楽チンだ。
登城日は2019年5月2日。GW10連休を利用しての東北&関東&甲信地方の100名城、続100名城、その他の城の合計22城を巡る旅の5日目、計14城目。朝に八戸城を訪問し、そこから二戸市の二戸市埋蔵文化財センター(八戸では無い。)へ向かい、スタンプを押印し、九戸城へ。ガイドハウスで少々、学習した後、登城開始。正面にはこんもりとした本丸が見える。
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九戸城は、1492年~1501年頃に、九戸光政が築城したとされる。登城路に沿って少し歩き、二の丸大手から行く。ゴミ1つ落ちていない整備された広大な二の丸跡。
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築城後、九戸一族は勢力を拡大するも、1590年から始まった豊臣秀吉の奥羽仕置が始まり、一帯は不穏な状況となる。二の丸搦手門跡。当時は舛形の虎口であったとされる。
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この時、九戸政実が挙兵するも、奥州再仕置軍6万騎に対し、九戸の籠城軍はわずか5千人であったとされる。二の丸から本丸へ、大手門跡が残る。
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最終的には、豊臣方の謀略で落城、これで豊臣秀吉の天下統一となった。この本丸は二ノ丸より一段高く土を盛って築かれており、ここから焼けた生活用品や火縄銃の弾丸が出土、明らかに合戦後に整地されたと考えられている。そして、最終的に廃城となったのは1638年。その前に、蒲生氏郷により改修された。
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本丸はほぼ100m四方の正方形。土塁や石垣で囲まれている。
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九戸城の最大の見所である本丸の石垣。奥州仕置後の1591年に蒲生氏郷が普請により築いたとされる。
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二の丸と本丸を繋ぐ虎口は2箇所とされているが、ここは無名の虎口、桝形になっている。
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本丸の南東隅には、隅櫓跡が残る。土塁や堀などの中世の城郭と石垣と櫓跡の近世の城郭の2つを持ち合わせているのが、この城の最も面白いところであると思う。
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本丸、二の丸の他に、少々離れているが、外館として、石澤館と若狭館がある。特に以降は残っていないので、時間があれば、行ってみる感じであろう。
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九戸城は見所の全てと外館を廻って1時間弱くらいだった。敷地自体、広大なので1時間程度は必要と思う。城内は非常に綺麗に整備され、案内や説明もちゃんとあり、城址の歴史と縄張りや遺物などとても分かり易く好印象であった。
これにて、東北地方の続100名城を制覇した。そして、この旅、ここから南に下る。途中にある岩手県の志波城に立ち寄り、宿泊先の福島県いわき市へ向かった。
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19年GWの旅行で根城を登城後、八戸市内に宿泊したので、同市内にある八戸城に寄ってみることにした。電車でのアクセスは、JR本八戸駅から徒歩で約5分程度。車なら、城址前にあるコインパーキングを利用すると良い。短時間で登城可能なので、数百円程度と思う。
登城日は2019年5月2日。GW10連休を利用しての東北&関東&甲信地方の100名城、続100名城、その他の城の合計22城を巡る旅の5日目、計13城目。
八戸城は、現在、三八城公園となっているが、その公園から道路を挟んだところに、遺構である県の重宝の八戸城角御殿表門がある。昭和53年の積雪で倒壊した際、冠木の中から、4㎝弱の小さな毘沙門天像が発見され、この門の創建当時のものであることが確認された。
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1334年に南部師行(なんぶもろゆき)が八戸根城を築いたが、その後まもなく、孫の南部信助が築いた中館が八戸城であったとされる。
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1627年に、根城南部氏が遠野に移封となると、三戸の南部利直が八戸を直支配し、縄張りを作り、八戸城を普請した。現在は三八城公園となっており、入り口付近に城址碑が建つ。
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園内にある本丸跡。特に、遺物は無い。八戸城の遺物は2つ。1つが冒頭の八戸城角御殿表門、2つ目は根城に移設された東門。根城史跡の広場の入り口となっている。
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本丸からの眺望。平地にある割には、なかなかのものだった。
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公園内の小高いところに、八戸藩初代藩主の南部直房の像が建つ。
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城址碑を撮影して終了、登城時間は10分程度で十分かと。この城は、八戸城角御殿表門だけ見るのでも良いかも知れない。この後は、続100名城の九戸城へ向かう。
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