続100名城の93城目は福井県の佐柿国吉城(さがきくによしじょう)。別名は国吉城、佐柿城。電車でのアクセスは、JR美浜駅から徒歩で25分。若しくは、JR美浜駅から福井鉄道バスの「敦賀行き」で、「佐柿口」で下車、徒歩5分。車なら、「若狭国吉城歴史資料館」に向かい、その少し手前に無料の駐車場があるので、そこを利用すれば良い。
登城日は2019年5月25日。まだ、5月と言うのに30℃を超える暑さの中での登城。まずは、「若狭国吉城歴史資料館」でスタンプを押印、内部は、城址とその城下町である佐柿の歴史的な町並みが紹介されている。登城前に立ち寄るのが良いと思う。
資料館のすぐ脇に登城口がある。ご覧のように平らで、この山麓には城主の居館跡があるが、この時期、草に覆われており、良く分からなかったので、割愛。
佐柿国吉城は、1556年、若狭守護武田氏の重臣であった粟屋勝久が築城したとされる。若狭国と越前国の境を守備するいわば、「国境の城」であった。山麓の登城路を少し行くと、結構、厳重っぽい獣侵入防止の柵がある。「熊出没注意」と言うことで、急にビビり、鈴をズボンとリュックに装着し登って行く。道自体は整備されているので歩き易いが、かなり急だ。
1563年から、毎年のように越前の朝倉氏の侵攻に合うが、地侍や民衆と共に籠城、撃退し続けた。それ故に、「難攻不落」と言われるようになったとされる。山城で、ほとんどひと気がないのには少々慣れてはいるものの、やはり、気持ちが良いものではないなあ、と思いながら、ようやく、本丸下帯曲輪に到着。上下2段で構成されている段石垣を確認。少々、修繕が入っているが、この城では貴重。
本丸下帯曲輪の堀切は、連郭曲輪群を断ち切り、敵の侵入を防ぐものとされる。発掘調査で、この曲輪を繋ぎ、堀切を渡る橋があったっとのこと。
朝倉氏は1573年に滅亡することになるわけだが、その3年前の1570年4月、城主の粟屋氏は、朝倉攻めに向かう織田信長の軍勢に加わり、後に天下統一を果たす戦国の三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)が揃って、ここ佐柿国吉城に入城、ここから出陣したとのことだ。その姿、今となっては、かなり凄いことである。本丸上部へ向かう際にあった、土塁、堀切、石垣。ここまで残っているのに感動を覚えた。
その後、1583年に豊臣秀吉の家臣であった木村定光が城主となり、石垣造りの城に改修、城下町の整備を行い、今の町並みの基礎を造ったとのこと。本丸の北西虎口跡には、礎石や鏡石などの貴重なものが発掘された。ここからの眺望も素晴らしいので、現地で是非。
最終的に廃城となったのは江戸時代の初期とされ、恐らくは、僅か50年ほどしか存在しなかった城。だが、本丸の虎口や周囲には多数の石が存在していることから、当時、石垣で固められていたのではないかと考えられている。
ここからの眺望は良く、周囲を見渡せるので、少々、シンドイ登城路であっても、そう快感を感じることが出来る。
佐柿国吉城に天守のような象徴的な建築物があったかどうかは明らかでは無いが、本丸の南端隅は少し、小高くなっており、発掘調査で、土坑跡や大小の石が存在していることから、櫓台があり、それが天守のような象徴的なものであったのでは、と考えられている。
本丸を後にして、下山する。途中、伝二の丸跡の表示板があるので、少々、お疲れ気味でも行くと良いと思う、高土塁があり、食違い虎口に存在が確認できる。写真ではやや右奥にあるのが、それである。
佐柿国吉城は見所を全て廻って、山麓からの往復で1時間少々と思う。登城路は良く整備されているし、案内もしっかりとあるが、結構、キツイ坂道もあるので、夏場などは注意して登城すべき。又、獣が出そうな雰囲気は無い感じだが、注意の看板がある以上はケアすべき。虎口跡や堀切や土塁、石垣(崩れてはいるものの)など戦国時代の山城を体感できるし、要所で説明版もあるなかなかの城址と感じた。今回は時間の都合上、訪問出来なかったが、城下町などもゆっくり散策すると良いかも知れない。
この後は、福井の美浜から、舞鶴若狭自動車道で、京都府福知山市へ向かう。続100名城で明智光秀築城の福知山城だ。
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