100名城と続100名城達成による燃え尽き症候群とコロナ禍で長期間のblogお休みから、ようやく、再開することにした。まずは、スタンプのみで未登城であった小谷城から。アクセスは電車はJR北陸本線で河毛駅下車し徒歩30分くらい。車なら、城の麓の小谷城戦国歴史資料館に駐車場が有る。
登城日は2020年10月3日。小谷城スマートICで降り、すぐに資料館に到着。スタンプは歴史館内受付にあるが、2018年7月に押印済なのでスルー、少々、勉強(復習)してから登城。小谷城は広大なので、全てを見切るのはなかなか難しい。「小谷城を登城した。」と言い切れるのは、やはり、山王丸跡までであろう。従い、歴史館のすぐそばにある追手道から山王丸まで向かうとした。尚、途中の番所跡までは車で行けるし、バスで番所跡まで行くガイドもある(本丸まで)ので、時間や体力のない人はそれを選択するのも手と思う。獣害防止の金網を抜けるとこのような感じ。熊除け鈴をつけて登城開始、まずは、番所跡まで1.2Kmだ。
小谷城は1516年頃に浅井亮政が築城し、3代(亮政、久政、長政)が居城とした。現在、日本五大山城(小谷城、春日山城、七尾城、観音寺城、月山富田城)の一つとされている。歴史館で入手した城址案内図でまずは、追手道から目指すは真柄峠。整備されてはいるが、結構な坂道を行く。10分弱で到着。少々休憩して、金吾丸へ向かう。途中、見晴らしが良いところがあるので、現地にて是非。藪だらけの金吾丸は少々、高台にあり、すぐに番所跡へ。結局、追手道から番所跡までは20分ほど掛かった。ここが数台が停めれると言う番所跡。ただ、黄色の部分は駐禁となっている。番所は小谷城主郭への入口である重要な曲輪だ。
3代目の浅井長政の時である1570年~1573年までの一連の戦いは元亀争乱と呼ばれる。1570年に織田信長と断交した長政は朝倉氏と組み、信長・家康と戦う。姉川の合戦だ。その2年後、信長は小谷城のすぐそばにある虎御前山に本陣を置き、砦を修築し対峙する。番所跡から、すぐのところに虎御前山展望所がある。これが虎御前山だ。かなり近い。
1573年に一乗谷の合戦にて信長により、朝倉氏が滅亡するといよいよ、小谷城総攻撃が始まる。お茶屋跡、御馬屋跡などを過ぎ、桜馬場跡に到着。ここからは琵琶湖と彦根城が見える。また、浅井氏とその家臣の墓碑もあるので、お見逃しなく。番所跡から15分ほどで大広間跡に到着、千畳敷とも呼ばれ、建物跡や井戸跡が残る。
大広間跡の北側に本丸がある。南側に残る石垣、この城の見所の一つ。本丸には2層の天守があったと古絵図に記載がある。小谷城最終決戦ではここ本丸に浅井長政が拠っていた。
本丸から今回登城の最終目的地である山王丸へ向かう。約410mとの表示あり。本丸とこの北側にある中丸を寸断する大堀切。かなりの迫力だ。
中丸跡を抜け京極丸跡に到着。ここは京極氏の屋敷があった場所とされ、決戦時に秀吉が占拠し、南の本丸とここから北にある小丸を寸断する。本丸に長政、小丸に浅井久政(長政の父、2代目)がいたので親子を寸断したわけだ。
北にある小丸を向けると、いよいよ、この主郭部の詰めの丸である山王丸に。東側に残る大石垣はこの城址で最も良く残る石垣で、必見だ。
山王丸から先は搦手道で月所丸跡、しいては、大嶽城跡に通じている。従い、時間や体力があれば、そこまで行くことも出来るが、追手道からなので、ここで引き返すこととした。
途中、往きに見逃した浅井長政が自害した赤尾屋敷跡へ。ここへは首据石があるところに案内があるのでお見逃しなく。奥の方に石碑があるので、お祈り。決戦の途中、浅井3姉妹を織田側に引き渡すなどした上で長政は徹底抗戦、信長の兵に追われ、ここにて自害、そして、小谷城は落城した。
小谷城は追手道から詰めの山王丸までの全見どころを見て往復1時間30分程度であった。山麓の歴史館をしっかり見るなら、2時間は必要と思う。各曲輪が良く残っており、案内板も要所にあるので、理解しながら楽しめる山城と思う。又、まま険しい山城なので、夏場は十分な準備が必要。体力のない方は番所跡までのガイド付きバスがあるので、それを使うと良いが、案内は本丸までなので、大石垣のある山王丸まで行けないのがちょっと残念かもしれない。(本丸から山王丸までは険しくない道で10分ほどなのに、行けないのは。。。)
もし、遠路はるばるこのエリアまで来たら、彦根城(100名城)や佐和山城、鎌刃城(続100名城)、長浜城などにも寄ると良いであろうと思う。私はこの後、長浜城に向かった。
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