サラリーマンの日本200名城登城記録

日本100名城、続100名城に興味をもった普通のサラリーマンが綴る登城日記。200名城の制覇は時間、体力、金銭に非常に厳しい旅行。だが、日本の歴史的遺跡・遺物の素晴らしさを知り、完全に登城した時の充実感を感じ、ついでにやたらと歩く運動不足の解消と仕事のストレス発散など、良いところづくめの面白さ。そのようなところを綴っていきたい。

タグ:国指定史跡

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コロナ禍の2020年9月、GoToトラベルが始まり、4連休を利用して遠出のドライブ旅行に出掛けた。目的地は山陰方面、途中、是非とも行ってみたかった鳥取県の太閤ヶ平(たいこうがなる)を登城した。ここへ車で行く場合は鳥取市歴史博物館を目指すのが良い。隣に無料の駐車場が有る。
登城日は2020年9月21日。ルートマップを入手し、向かう道程は鳥取東照宮鳥居から舗装された道路を行く「太閤ヶ平ルート」、1時間30分とある。そして、そこから縦走し、鳥取城本丸(山上ノ丸)へ向かう「兵糧攻め対陣コース」、最後は本丸から山下ノ丸方面へ下る「中坂コース」だ。鳥取城は、2018年7月30日に登城済で2回目だが、かなり厳しかった山下ノ丸からの登城では無いので、まだ気は楽だ。
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当然でも無いが、クマさんが出没する可能性がある。今年の5月に2回ほど目撃情報があったそうで、熊除け鈴を2つ付けて登城開始。9月なのでまだまだ暑い。目的地までは約3㎞くらい、だらだらした舗装道路を行く。車も通行できるような道であるが侵入出来ない。結構、人とすれ違ったりしたので、何となくクマの恐怖は和らいだ。
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太閤ヶ平は1581年に羽柴秀吉が築いた付城で鳥取城本丸から東に1.5kmの本陣山(251m)の山頂にある。急な坂道では無いが、汗だくになりながら約50分ほどで到着。夏場は水分など十分な準備が必要なのは間違い無い。
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織田信長の中国征伐で対峙する毛利氏とで展開されたのが鳥取城攻めであり、秀吉は2万の軍にて鳥取城を包囲し、兵糧攻めを行った。それは120日にも及び、鳥取城内では餓死者を喰らうと言われるほど苛烈を極めたとされる。
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本陣は一辺約50mの規模を持つ内郭を巨大な土塁と空堀が囲んでおり、虎口が2箇所、ハッキリと残っている。これだけの規模にしたのは毛利氏が鳥取城に進軍した場合、信長自らが出陣し、それを迎えることを想定していたのではないか、とも考えられている。
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最終的に、鳥取城主の吉川経家は自らの命に替えて城兵を救うという条件で自害し、鳥取城は開城。経家は遺言状にて、「日本二つの御弓矢境において忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」とあった。織田と毛利と言う日本の2つの矢の中での戦で切腹することは末代まで大きな名誉となる、と言う意味とのこと。本陣の外側の空堀跡、土塁。現地で見るともっと迫力があるのだが。
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本陣の外からは久松山山頂にある鳥取城本丸が目視でもはっきり見えるので、ここはお見逃し無きよう。山頂右側の木が無いところが天守台跡と思われる。秀吉もこのような眺めを見たかと思うと感動する。
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さて、小休止して、ここから鳥取城本丸へと縦走する。距離は2.2㎞、約40分と案内板にあった。全くひと気が無く、嫌な予感がしながらスタート。途中、女性一人だけとすれ違ったが、それ以外に会うことは無かった。結局、鳥取城本丸までアップダウンのある山道をヒイヒイ言いながら行き、30分くらいで到着。今度は逆に本陣山を眺める。山頂に中継所が見える、そう、あそこだ。
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前回登城時も思ったが、とにかく、ここからの眺望はほぼ360度、素晴らしい。厳しい道程を登って来た甲斐があるのは間違いなしだ。計5㎞も歩いてきたので疲労困憊、ボーっとしながら少々休んで山下ノ丸へ下ることとした。名残惜しく、天守台跡をもう一度見る。往時には望楼型3重の天守があったとされる。
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下山するのも苦しいのが鳥取城だ。急な足場の悪い道をひたすら歩く。トレッキングシューズや登山靴のようなもので登城することを強くお勧めしたい。結局、30分以上かけて安全に下り、山下ノ丸に到着、壮大な石垣を見て終了。結局、太閤ヶ平登城開始から約3時間くらいであった。ようやく終わったと思うも、ここから最初に止めた駐車場まで歩かねばならない。途中、鳥取城大手門である「中ノ御門表門」の復元工事を見ながら、最後の力を振り絞って歩いた。
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思ったことだが、鳥取城太閤ヶ平の両方を登城する場合、鳥取城から太閤ヶ平へ行くのが一般的なようだが、間違いなく、その逆のルートで行くのがまだ楽と思う。とにかく、山上ノ丸まで登るのは大変、まだ下る方がマシ。山上ノ丸から太閤ヶ平へはどちらから行っても同じアップダウンと思われ。
さて、ここまで頑張ったなら、何か記念品が欲しいところ。写真のような御朱印が鳥取市歴史博物館で販売されており、購入した。なかなか良い感じの御朱印、お勧めだ。
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続100名城の最後100城目となった対馬の金田城を登城する前日に、福岡県行橋市にある御所ヶ谷神籠石馬ヶ岳城の2城を登城後、福岡市内にある西新元寇防塁に立ち寄った。住宅街にあり、駐車場は近くのコインパーキングしかない。短時間の訪問になるが、目の前は住宅なので路駐は厳禁だ。
登城日は2019年10月13日。まずは史蹟碑を撮影、立派な国指定の史跡だ。ここ以外にも福岡市内には多くの元寇防塁が残っていること、ご参考までに。
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元寇防塁(げんこうぼうるい)とは、1274年に蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府(文永の役)が、1276年に博多湾の海岸線に築いた防塁のこと。幕府は九州の御家人に博多湾20㎞にわたりこれを作らせた。この西新元寇防塁はほぼ中間の位置にあたるとのこと。ここの防塁は二重構造だ。
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防塁は、砂丘の上に粘土を敷いて基盤を安定させた上に石を積み上げている。この防塁は西南学院大学で検出され、12mほど北東側の1号館内に移築復元され、公開されている。
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敷地内には元寇神社がある。特に説明板などはなく、元寇の犠牲者などを祀っているものと思う。蒙古は1281年に再来襲するが、武士の奮闘と神風?により、上陸できずに撤退することとなったのは中学校で勉強した。(弘安の役)         
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見学時間は10分も必要ないと思われる。誰もが知る元寇、こういったもので備えをしていたと言う歴史が勉強でき、ちょっと寄るくらいにはもってこいと思う。
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続100名城の最後の100城目となった対馬の金田城を登城する前に、織豊系城郭として有名な山城の清水山城を登城、その山麓にある金石城に登城することにした。別名は金石屋形、厳原城。ここにアクセスするには、厳原港から車で3分ほど、対馬空港からは車で15分くらいのところにある「観光情報館ふれいあい処つしま」に一旦寄ってから向かうのが良い。パンフレットなどが置いてある。
登城日は2019年10月14日。この施設からすぐに見えて来るのが城の入口である大手門櫓、平成期に再建されたもの。金石城は1528年に宗将盛がこの地に作った金石屋形をはじめとする。1665年に拡張し、城郭を整備、1669年に大手門にこの櫓を建てたことで「金石城」と呼ばれるようになった。
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1687年に桟原城が築城されると、藩庁としての機能は失われたが、城は残っていた。城内には発掘調査により復元された庭園があり、国指定の名勝となっている。
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庭園は広く、江戸時代の風情を感じることが出来る。
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庭園近くに城の搦手門があるので、お見逃し無きように。発掘時に櫓台の石垣なども確認された。
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19世紀の絵図には銅門と記されているとのことだ。
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最終的に、大手門櫓は1813年の大火で焼失、4年後に二重櫓門を再建するも大正期に老朽化で解体、現在のものは1990年に復元されたものとのこと。
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金石城は庭園も見て廻って30分程度だった。清水山城の山麓なので、ついでにセットで見て廻ると良い。
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100名城と続100名城達成による燃え尽き症候群とコロナ禍で長期間のblogお休みから、ようやく、再開することにした。まずは、スタンプのみで未登城であった小谷城から。アクセスは電車はJR北陸本線で河毛駅下車し徒歩30分くらい。車なら、城の麓の小谷城戦国歴史資料館に駐車場が有る。
登城日は2020年10月3日。小谷城スマートICで降り、すぐに資料館に到着。スタンプは歴史館内受付にあるが、2018年7月に押印済なのでスルー、少々、勉強(復習)してから登城。小谷城は広大なので、全てを見切るのはなかなか難しい。「小谷城を登城した。」と言い切れるのは、やはり、山王丸跡までであろう。従い、歴史館のすぐそばにある追手道から山王丸まで向かうとした。尚、途中の番所跡までは車で行けるし、バスで番所跡まで行くガイドもある(本丸まで)ので、時間や体力のない人はそれを選択するのも手と思う。獣害防止の金網を抜けるとこのような感じ。熊除け鈴をつけて登城開始、まずは、番所跡まで1.2Kmだ。
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小谷城は1516年頃に浅井亮政が築城し、3代(亮政、久政、長政)が居城とした。現在、日本五大山城(小谷城春日山城七尾城観音寺城月山富田城)の一つとされている。歴史館で入手した城址案内図でまずは、追手道から目指すは真柄峠。整備されてはいるが、結構な坂道を行く。10分弱で到着。少々休憩して、金吾丸へ向かう。途中、見晴らしが良いところがあるので、現地にて是非。藪だらけの金吾丸は少々、高台にあり、すぐに番所跡へ。結局、追手道から番所跡までは20分ほど掛かった。ここが数台が停めれると言う番所跡。ただ、黄色の部分は駐禁となっている。番所は小谷城主郭への入口である重要な曲輪だ。
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3代目の浅井長政の時である1570年~1573年までの一連の戦いは元亀争乱と呼ばれる。1570年に織田信長と断交した長政は朝倉氏と組み、信長・家康と戦う。姉川の合戦だ。その2年後、信長は小谷城のすぐそばにある虎御前山に本陣を置き、砦を修築し対峙する。番所跡から、すぐのところに虎御前山展望所がある。これが虎御前山だ。かなり近い。
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1573年に一乗谷の合戦にて信長により、朝倉氏が滅亡するといよいよ、小谷城総攻撃が始まる。お茶屋跡、御馬屋跡などを過ぎ、桜馬場跡に到着。ここからは琵琶湖と彦根城が見える。また、浅井氏とその家臣の墓碑もあるので、お見逃しなく。番所跡から15分ほどで大広間跡に到着、千畳敷とも呼ばれ、建物跡や井戸跡が残る。
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大広間跡の北側に本丸がある。南側に残る石垣、この城の見所の一つ。本丸には2層の天守があったと古絵図に記載がある。小谷城最終決戦ではここ本丸に浅井長政が拠っていた。
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本丸から今回登城の最終目的地である山王丸へ向かう。約410mとの表示あり。本丸とこの北側にある中丸を寸断する大堀切。かなりの迫力だ。
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中丸跡を抜け京極丸跡に到着。ここは京極氏の屋敷があった場所とされ、決戦時に秀吉が占拠し、南の本丸とここから北にある小丸を寸断する。本丸に長政、小丸に浅井久政(長政の父、2代目)がいたので親子を寸断したわけだ。
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北にある小丸を向けると、いよいよ、この主郭部の詰めの丸である山王丸に。東側に残る大石垣はこの城址で最も良く残る石垣で、必見だ。
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山王丸から先は搦手道で月所丸跡、しいては、大嶽城跡に通じている。従い、時間や体力があれば、そこまで行くことも出来るが、追手道からなので、ここで引き返すこととした。
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途中、往きに見逃した浅井長政が自害した赤尾屋敷跡へ。ここへは首据石があるところに案内があるのでお見逃しなく。奥の方に石碑があるので、お祈り。決戦の途中、浅井3姉妹を織田側に引き渡すなどした上で長政は徹底抗戦、信長の兵に追われ、ここにて自害、そして、小谷城は落城した。
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小谷城は追手道から詰めの山王丸までの全見どころを見て往復1時間30分程度であった。山麓の歴史館をしっかり見るなら、2時間は必要と思う。各曲輪が良く残っており、案内板も要所にあるので、理解しながら楽しめる山城と思う。又、まま険しい山城なので、夏場は十分な準備が必要。体力のない方は番所跡までのガイド付きバスがあるので、それを使うと良いが、案内は本丸までなので、大石垣のある山王丸まで行けないのがちょっと残念かもしれない。(本丸から山王丸までは険しくない道で10分ほどなのに、行けないのは。。。)
もし、遠路はるばるこのエリアまで来たら、彦根城(100名城)や佐和山城、鎌刃城(続100名城)、長浜城などにも寄ると良いであろうと思う。私はこの後、長浜城に向かった。
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続100名城の最後100城目となった対馬の金田城を登城する前に、織豊系城郭として有名な山城の清水山城を登城した。この城にアクセスするには、厳原港から車で3分ほど、対馬空港からは車で15分くらいのところにある「観光情報館ふれいあい処つしま」に一旦寄ってから向かうのが良い。ここに駐車し、徒歩約10分ほどで登山口に着ける。だが、その道中は一般道とはいえ、結構、急坂を行く。現地に行けばわかるが、登山口の目の前は民家なので駐車スペースは無いので要注意。
登城日は2019年10月14日。「観光情報館ふれいあい処つしま」にて、続100名城最後の金田城のスタンプを押印した後、登山口へ向かった。そこまでは少々わかりずらいので、こちらをご参照頂ければすんなりと行けると思う。
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道中は整備はされているが、石ころが転がっているので、革靴などではシンドイと思う。一の丸まで行くのであれば、30分くらい掛かるので、夏場などは水分等の準備も必要だ。
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清水山城は、朝鮮出兵時に豊臣秀吉の御座所として、1591年に宗義智が築城した。この城は、朝鮮出兵の一大拠点であった肥前の名護屋城から、壱岐の勝本城、朝鮮半島は釜山につながる重要な軍事的中継点としての役割であった。登城開始して、10分弱で三の丸が見えて来る。算木積みの石垣は壮大だ。
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この城は、標高210mの清水山の尾根沿いに、東西約500mにわたって、山頂に一ノ丸(本丸)、中腹に二ノ丸、東の段丘に三ノ丸を配した三段の曲輪が並び、斜面を這う竪石垣で結ばれている。ここ三の丸からは厳原(いづはら)の町並みや厳原港を一望出来る。
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三の丸から、二の丸ヘ向かう。途中にある石垣は大きな石を配置した鏡積みも見られる。
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重要な拠点であった清水山城ではあるが、秀吉の死により、朝鮮半島から撤退するとすぐに廃城となってしまった。二の丸には約10分ほどであったと思う。ここには内舛形虎口が残り、織豊系城郭であることを感じることが出来る。
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二の丸からの眺望も良い。厳原港と町並を一望。
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この清水山城、秀吉の朝鮮出兵(1592年~)の際の釜山への重要拠点とすべく、1591年に秀吉の命により毛利高政が築城したと言うのが説であったが、近代になって、対馬領主の宗義智の築城であることが主力になり、相良氏、高橋氏、筑紫氏らが協力したとのこと。二の丸にハッキリと残る虎口を抜け、一の丸へ向かう。
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5分ほどで一の丸への虎口が見えて来る。扁平の石を積み上げている。この石垣はかなり綺麗に残っており、感動。
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朝鮮出兵が終わると半島との関係は完全に切れるわけだが、朝鮮との交易で利益を上げていた対馬は困窮してしまう。そのため、藩主の宗氏は関係修復に奔走、何とか朝鮮通信使の招聘に成功した。そして、平和な江戸時代となり、この城は歴史の中に埋もれることになった。もう一段上の虎口からはご覧の通り、周囲が一望できる高さ。
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そして、やっと一の丸のてっぺん(清水山山頂)に到着。絶好の晴天の中、周囲の山々と青い空が綺麗だった。
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ここからの厳原湾も美しく見えた。やはり、到達した喜びとともに癒される瞬間だ。少し、休憩をして山を下りた。
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清水山城は、登山口から一の丸までの往復で1時間少々だった。運動不足のサラリーマンにとっては丁度良い運動のレベルと思う。道中は石や岩場で少々、登りにくいが、整備されているし、案内もある。道中や曲輪の石垣を見る楽しさとその歴史的価値、曲輪からの眺望などから、★★★★★と評価出来るレベル。是非、対馬まで行くなら、金田城とセットで登城したい城と思う。
この後、この清水山の麓にある金石城を登城したので、後日、アップする予定だ。
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続100名城の最後100城目となった対馬の金田城を登城する前日に、福岡県の行橋市にある御所ヶ谷神籠石(ごしょがたにこうごいし)馬ヶ岳城の2城に行ってみた。まずは、御所ヶ谷神籠石から。電車でのアクセスは、日豊本線の「行橋駅」から、太陽交通バスで「勝山新町ゆき」で約20分、「津積(つつみ)」バス停で下車し、徒歩で約2km。行橋駅からの徒歩なら約8.5kmだ。又は、平成筑豊鉄道の「豊津駅」から徒歩で約5km。車なら、城址の近くにある「御所ヶ谷住吉池公園」にナビをセットして行き、案内に従って更にその奥にある第3駐車場に止めると良いであろう。
登城日は2019年10月13日。第3駐車場からのルートは2つある。東門に向かうか中門を目指すか。この城址の見所は、東門、中門、西門とあるので、真ん中から行くのは効率が悪い。従い、東門から中門、西門と行くこととした。まず、目指すは300m先だ。
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そもそも、神籠石(こうごいし)とは、久留米の高良山の列石が古くからそのように呼ばれていたことにならって付けられた遺跡名とのこと。発掘調査により、列石を基礎とした城壁(土塁)で山を囲んだいわゆる古代山城であることが判明、明治時代以来、「神籠石」という名称が使い続けられていたので、それが今でも残っている。現代的には、「御所ヶ谷城」と言った方が分かり易いが。5分ほどで東門に到着。片側のみあり、崩れている状態。
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東門跡から第二東門跡まで向かう。途中、列石と呼ばれる土塁の基礎補強のために並べられた石が見える。
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最近ではこのような古代の城を、「神籠石系山城」と呼ぶこともあるとのことだが、その築城の記録は残されていない。発掘調査の結果から7世紀後半と推定されており、その頃、丁度、朝鮮半島で百済救援のために倭国が出兵、663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗退した。その後、倭国は唐・新羅の侵攻に備え、各地に山城を築城する(金田城鬼ノ城大野城基肄城水城など。)わけであるが、どうやら、「神籠石系山城」はその前後に、国家防衛の目的で作られたものっと推定されている。第二東門跡に到着、残念ながら、崩壊しているのか、ブルーシートで覆われていた。
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この山城の周囲は約3Kmで版築工法で作った高さ3~5mの土塁を巡らせているのが、調査で分かったとのこと。第二東門跡で折り返し、来た道を戻る。最初の東門から、この城郭メインの中門跡へ。谷を30m以上に渡り石塁で塞ぎ、中央に城門を設置している。写真にもある通り、排水用途の石樋も設けられている。1300年以上も過ぎ、この石塁の状況を保っているとは驚きの一言。
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アップ目で見るとこんな感じ。花崗岩の切り石が巧みに積み上げられている。
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中門跡をゆっくり見学して、礎石建物跡が残る景行神社へ向かう。途中、所々で見える眺望はなかなか。
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中門から10分も掛からずに到着。城の建物跡と推定される礎石。近くに小屋があるので、ここで休憩するのが良い。
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5分ほど休み、最後の西門跡方向へ下って行く。途中にある馬立場石塁。どうやら、この奥が湿地となっていることから、貯水池が存在し、その堤防の役割なのではないか?と推定されているそうだ。
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すぐに西門跡に到着。中央部は崩れているが、大規模な門であったことが窺える。石の積み方が中門とは異なる。中門はレンガを積み上げたような感じだが、こちらは重箱を積み上げたイメージ。同じ城址の石塁でも積み方が明らかに異なっている。
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西門内側から異なる石が確認出来る。どうやら、列石から取った石とのことで、現場でこのようなことを発見できるのは嬉しい。
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遠方から見るとこのような感じ。木が覆い茂っている左右外側に土塁、その内側に石塁、真ん中に城門。とても分かり易い。
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御所ヶ谷神籠石はかなり奥に位置する南門は行かなかったが、前述した見所を廻って約1時間少々だった。所々アップダウンがあるが、散策路は整備されているので歩き易かったし、案内板や説明書きもちゃんとあるのも、嬉しい。1300年以上ものがこれだけ残っていることに感動、100名城でも続100名城でも無いが、是非、お勧めしたい史跡と思う。
この後は近くにある馬ヶ岳城へ向かった。こちらはハードな軽登山の城だ。
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続100名城の98城目は北海道の上ノ国勝山館(かみのくにかつやまだて)。別名は脇館(わきだて)、和喜館(わきだて)。電車でのアクセスは、かなり大変。道南いさりび鉄道の「木古内駅」から、函館バスで約70分「大留」下車で徒歩3分 、乗り換えて、「上ノ国駅前」から「上ノ国」で下車し、徒歩数分とのこと。車では、登城口にある勝山館跡ガイダンス施設の無料駐車場に止めれば、楽チンだ。
登城日は2019年8月10日。夏のお盆休みを利用しての100名城3城、続100名城2城の計5城を巡る旅の2日目。この日はロングドライブとなり、朝に函館を出発し、100㎞ほど走り、松前城を登城、そこから、国道228号線を50㎞ほど走って到着。途中、昼食を摂ったこともあり、15時くらいであった。余ほど、時間が無い限りは、勝山館跡ガイダンス施設に寄ることになると思うが、開館時間は16時まで、又、冬季は閉館があるので、訪問前には要注意。ガイダンス施設でスタンプを押印し、模型や映像、再現された墓などを見学し、登城開始。ルートは2つのコースがある。山麓、つまり、大手口からのコース(A)とガイダンス施設のある搦手側からのコース(B)。今回はBコース、高台から見晴らしの良い景観が楽しめるはずであるが、どんより曇り空、今にも雨が降り出しそうな。。。。この周辺には、アイヌの墓があり、和人とアイヌが共存していた証拠であるとのこと。
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勝山館は、1470年頃に武田(蠣崎)信廣が築城したとされる。16世紀末頃まで、武田氏の日本海側での政治、軍事、交易の一大拠点であった。(ちなみに、武田信廣は後の松前氏の祖。)長期間に渡る発掘調査の結果、様々な発掘物や遺構などが発見された。登城後すぐに迎えてくれるのが、土葬墓跡やごみ置き場跡など。大手側には居館跡などがあるから、搦手側はこのようなものがあるのか。この小さな穴に、体を折り曲げて棺に入っていたとのこと。
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ここが搦手の守りで、深い空堀に高い土塁を設けて、その上に柵で防御している。橋を渡った入口が搦手門である。
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搦手門を過ぎると、館神八幡宮跡がある。1473年に武田信廣が作ったとされ、故に、勝山館もその頃に築城されたと考えられているそうだ。眺望はここからが最高。晴天であれば、と思わざるを得ない。
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1514年に、武田信廣の子である蠣崎(かきざき)光広が松前に本拠を移すと、それ以降は、副城を意味する「脇館」とか、「和喜館」と称されたとのこと。中央のこの大きな通りの左右に掘立建物跡が並び、その途中には櫓門跡が残る。遠方までを見渡せるベストの場所。両脇には、雨水などを流す溝が作られている。
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最終的に、勝山館は1596年~1615年頃に廃城なるまでこの地の中心地として栄えていたとのこと。実際に、客人をもてなす客殿跡は立派で、城主が使用していたとされる。隣に、城主の居住跡や馬屋、鍛冶場跡なども発掘されている。
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客殿からすぐのところに大手門があり、その外に出てみる。高い土塁と柵で厳重に守られているのが分かる。
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さらに、大手側にあるのが、二重になっている堀。大手からの侵入は、この2重掘と高い土塁、柵と大手門、その目の前にある櫓門の防御やそれらからの攻撃を突破しなくてはならない。現地で見れば、かなり大変であることがとても良く分かった。
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更にそこから先に進むと、大手道の入口に到着する。まま、急な坂道、大手口から登城する(Aコース)場合は、写真左側の手摺りのある坂道を行くこととなる。
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一応、ここで折り返し、ガイダンス施設へ戻る。当然、緩やかな坂道となるので、少々、疲れるとは思う。急いで廻れば、大体往復で45分くらい。ちょっと休憩してから、すぐ隣にある夷王山(いおうざん)に登ることにした。頂上は山麓から見える標高159m。「あの山頂からは景色が綺麗であろうな~。」と思い、約10分で到着。当然、曇りなので、眺望は良くは無なかったが、いかんせん、かなりの強風で、飛ばされそうになるくらい、残念ながら、早々に下山。
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また、大手の登城口には、国の重要文化財があるので、時間があれば、是非。ガイダンス施設から車で数分程度で、駐車場もある。これは、旧笹浪家住宅とのことで、ニシン漁の住居兼仕事場であったとのこと。目の前が海で、冬の寒さがかなり厳しいこと想像に容易いが、良く保存されていると感心。

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上ノ国勝山館は、ガイダンス施設、城址の見所を往復して、1時間少々~1時間30分と思う。場所的にも、冬の登城はかなり厳しいと思うので、夏頃に訪問するのが良いのでは。道中は綺麗で、説明版も充実しているし、縄張りと復元物も分かり易いので、中世の城館跡ということではとても理解しやすいお勧めの場所だ。
これで、この日は終了。ここから函館に戻る。翌日は、いよいよ、100名城のオーラス、最難関と言われる「根室半島チャシ跡群」。函館空港から新千歳空港を経由し、中標津空港へ向かう。丸一日、移動のみだ。(前日の思いはこちらから。)
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100名城のラス前となる99城目は北海道の松前城。別名は福山城。電車でアクセスする場合は、結構、大変。JR江差線の「木古内駅」から、函館バスの「松前行き」で約90分程度、「松城」下車、徒歩約10分。車なら城址近くに無料駐車場が有るので、便利だ。
登城日は2019年8月10日。夏のお盆休みを利用しての100名城3城、続100名城2城の計5城を巡る旅の2日目。宿泊地の函館から、約100㎞で2時間弱で到着したと思う。大手門跡のあたりの駐車場から徒歩1分弱で登城口(天守閣方入口)に着いた。
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1606年に松前家の初代藩主であった松前慶広がこの地に築城した。その後、1849年、松前崇広が外国船の出没に備えて津軽海峡の警備強化を図るため、幕府から築城を命ぜられ、5年がかりの1854年に松前城は完成した。有料の松前城天守閣内部は、松前城資料館となっており、その中にスタンプがある。最上階からの眺めはまずまず。
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江戸の末期の築城時に三重三階の天守があったため、日本で最後に築城された日本式城郭とのことで名高い。残念ながら、1949年に松前町役場から出火した飛び火により焼失してしまった。大東亜戦争を乗り越えて残っていただけに、至極、残念。現在の天守は1961年に再建された復興天守だ。城内の残る遺物は国の重要文化財でもある本丸御門(櫓門)。近くで見ると、その重厚さに圧倒される。
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松前城は、復興天守と本丸御門が最大の見所であることは間違いないが、他にも多くの見るべき箇所がある。有料のエリアから外に出れば、二の丸には、二重太鼓櫓の跡がり、そこからの海の眺めはかなり美しかった。そして、二の丸搦手門を出ると台場がある三の丸に着く。
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ここに、縮小版の展示があり、縄張りが良く分かるので、是非。
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三の丸から二の丸と天守方面はやや上り坂になっている。
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外堀は二の丸(写真右)と三の丸(写真左)の間にあり、三の丸には7基の砲台があった。
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馬坂方面まで散策し、再び、本丸方面へ戻る。途中、隅櫓跡などを見て、天守裏側方面へ。見逃せないのが、この本丸の内堀だ。
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松前城の散策を終え、ここから、徒歩でも車でも行ける2つの観光場所に寄った。一つ目が、松前藩屋敷。当時の街並みが再現されており、奉行所など14棟があるテーマパークだ。大好きな人形は、今回は床屋だ。
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また、ここから徒歩数分で、ひっそりとした場所に松前家の墓所がある。歴代の松前氏がここで眠っている。
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松前城は城内の全ての見所、松前藩屋敷、墓所などをセットで廻るなら、1時間半程度と思う。アクセスは大変であるが、簡単に日本最後の旧式城郭、その歴史を楽しめるなかなかの観光地と思う。城内の説明版もちゃんとあるし、登城路は綺麗に整備されているのも嬉しかった。
この後は、一路、松前市から北上し、続100名城の北海道の最後である上ノ国勝山館へ向かう。
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2019年のお盆休みを利用して、北海道の100名城&続100名城を巡る中、函館の五稜郭の近くにある四稜郭に寄ってみた。五稜郭からは車で10分程度であったと思う。広い無料の駐車場が有り、そこからすぐに登城できるので、楽チンだ。徒歩では、函館駅からのバスで、「四稜郭停留所」からすぐらしいが、便数が無かったり、やや不便とのことだ。国指定史跡だけあり、綺麗に整備されていたのが印象的。
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戊辰戦争末期の1868年、五稜郭を占拠した榎本武揚らの旧幕府脱走軍は、新政府軍の攻撃に備えて各地に防御陣地を築いた。1869年に、五稜郭の鎮守である北海道東照宮を守るために、五稜郭の北方約3kmにある緩斜面台地に築かれたのが、この四稜郭である。城址碑からすぐのところに、城内唯一の虎口があり、そこから入城。城内が全く見えないほど、周囲の土塁が高い。
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地元の言い伝えでは、旧幕府脱走軍は、士卒役200名と付近の住民約100名を動員、昼夜敢行で僅か数日のうちに完成させたと言われている。それは、蝶が羽を広げたような形の堡塁で、東西約100m、南北約70mとのことだ。16時半過ぎであった為か、人が全くいなかったので、のびのびと整備された城内をゆっくりと歩いた。

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1869年の5月に、新政府軍が箱館総攻撃を開始、旧幕府脱走軍は四稜郭の防御に努めるも、新政府軍に福山藩兵も加わり、さらには、長州藩兵が四稜郭五稜郭の間に位置する権現台場を占領されたため、退路を断たれることを恐れて退却した。そして、すぐに旧幕府脱走軍の榎本武揚らが降伏、箱館戦争は終結した。ここの土塁は幅5.4m、高さ約3mもあり、その周囲は幅2.7m、深さ0.9mの空濠が掘られている。

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箱館戦争後、四稜郭は放置されていたが、昭和期になり、徐々に整備されて現在に至る。この稜堡は構造が良く分かるので、必見だ。
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四稜郭は広くは無いので、10分程度もあれば、全体を見ることが出来るであろう。コンパクトでその構造がわかり易いのが良い。五稜郭訪問後に、是非、訪れたい場所だ。
この日はこれで終了、翌日は、函館から松前方面は向かう。100名城の松前城と、続100名城の上ノ国勝山館だ。
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続100名城の97城目は北海道の志苔館(しのりだて)。別名は志濃里館(しのりだて)。電車でのアクセスはJR函館駅前停留所から、函館バスで志海苔停留所下車(約35分)、停留所からは約260m 。車では少々困る。城址には駐車場はなく、入り口付近の道も狭い。付近で駐車出来る場所を探して、徒歩で向かうのが良い。
登城日は2019年8月9日。夏のお盆休みを利用しての100名城3城、続100名城2城の計5城を巡る旅の初日。中部国際空港から函館に飛び、空港からレンタカーで13時半過ぎに到着。透き通るような青空、少々暑いが爽やかな気温が本当に嬉しい。前述の通り、駐車場が無いので、まずは登城口を確認の上、駐車出来そうな場所を探してから、徒歩で向かった。登城口の奥の方に城址碑と案内板があった。
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登城口からすぐに休憩用の小屋があり、そこに続100名城のスタンプがある。続100名城の一番目、【101番】だ。記念すべき北海道の名城の1城目。
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志苔館の正確な築城時期はわかっていないが、松前藩の史書で津軽安東氏の家臣であった小林良景が築城したとのことで、その記述などから、14世紀の後半~15世紀の初頭と推定されている。登城口は二重の堀と橋、門があったとされる。
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志苔館は、安東氏が作ったいわゆる「道南十二館」の最東端にある館で、1456年からのコシャマインの戦いにて、陥落したとの記述があるとのこと。高い土塁を抜けると、郭内に入ることになる。調査によれば、中国と国内の陶磁器や金属類、石などが出土している。
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更に、1512年には、同じくアイヌのショヤコウジ兄弟の戦いでも再度、陥落する。この後は、館主の小林氏が松前藩に従属、志苔館が歴史の記録に登場することはなく、ここで事実上の廃館となったものと推定されている。主郭は、発掘調査の結果、複数の建物跡や井戸跡、柵跡や虎口などが確認されている。
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主郭は高い土塁で囲われている。その土塁の上に行き、海側を撮影。
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主郭内は綺麗に整備されていた。古い城址碑もあるので、是非、現地にて確認して頂きたい。
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更に、山側も撮影。とにかく、猛暑の名古屋から来たこともあり、最高の心地良い気分に浸った。
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城郭の東側にある土塁は、かなりの迫力がある高さ。
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土塁の上から周囲を見下ろすと、ここの縄張りが分り易かった。城内は主郭部のみで、城外も土塁と堀がある程度なので、これで、終了とすることにした。
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志苔館は広くも無いし、見所も少ないので、さっと、廻れば最大でも20分ほどと思う。歴史的には、和人とアイヌの闘争の場と言う点での価値はあるかと思う。城しては、高い土塁と堀、主郭部の遺構などくらいを見る程度。案内板はそれなりにあるのが有難かった。
この後は、日本100名城の五稜郭へ向かう。
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