2018年末の群馬・埼玉・栃木の3県の続100名城巡りで、「比企城館跡群」で国の指定史跡である松山城に立ち寄ることにした。アクセスは、電車は、東武東上線の東松山駅から徒歩で25分程度。また、駅からのバスで「百穴入口」で下車、徒歩3分。車は、城址付近に駐車場は無いが、吉見百穴前に駐車場があり、そこから徒歩10分程度。
登城日は2018年12月28日。小倉城から車で向かう。登城開始してすぐに、曲輪4に到着。松山城は、西から東に向かって本曲輪、二ノ曲輪、三ノ曲輪が一直線に並ぶいわゆる連郭式で、曲輪4は三ノ曲輪の更に東側に位置している。
鎌倉時代の文献には上田氏が居住されていたとされ、1394年頃には松山城は存在していたようであるが、詳細は不明。1532年以降の文献では、扇谷・山内両上杉氏、後北条氏、武田氏、上杉氏の名も見られ、1537年には、小田原北条氏が江戸城と川越城を落とし、松山城を攻めた。郭4から三ノ曲輪へは深い堀跡が見られた。戦国の世の状態が良好に保存されていると言う。
城主であった上田氏は結局、河越夜戦の後、後北条氏に臣従するが、松山城をめぐる攻防は依然として激しく、北武蔵地域の要所であったことが伺える。二ノ曲輪から本曲輪へは迷わずにすぐに到着。
本曲輪はこんな感じ。青い空で空気も美味しかった。
1590年の豊臣秀吉の小田原攻めにより後北条氏が滅亡、その後、徳川家康の譜代である松平家が城主となったが、忠頼の代に浜松に移封され、1601年に廃城となった。本曲輪からの眺望は、残念ながら、木々が邪魔で今一、見通せず。
他にも、惣曲輪、太鼓曲輪、笹曲輪などがあるが、時間の都合で廻らなかった。ちょっとだけ兵糧蔵跡までは足を伸ばしたが、特に何も無い。
駆け足の登城だったので、往復で20分程度だった。堀や縄張りは良く分かると思うが、それ以外には特に見所と言ったものは無かった。案内図や説明はしっかりあるし、登城路もまずまずの状態なので、時間があれば、訪問したい城址と思う。
この後は、2018年最後となる栃木県佐野市は唐沢山城へ向かう。高速道路で約1時間少々の距離だ。
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登城日は2018年12月28日。小倉城から車で向かう。登城開始してすぐに、曲輪4に到着。松山城は、西から東に向かって本曲輪、二ノ曲輪、三ノ曲輪が一直線に並ぶいわゆる連郭式で、曲輪4は三ノ曲輪の更に東側に位置している。
鎌倉時代の文献には上田氏が居住されていたとされ、1394年頃には松山城は存在していたようであるが、詳細は不明。1532年以降の文献では、扇谷・山内両上杉氏、後北条氏、武田氏、上杉氏の名も見られ、1537年には、小田原北条氏が江戸城と川越城を落とし、松山城を攻めた。郭4から三ノ曲輪へは深い堀跡が見られた。戦国の世の状態が良好に保存されていると言う。
城主であった上田氏は結局、河越夜戦の後、後北条氏に臣従するが、松山城をめぐる攻防は依然として激しく、北武蔵地域の要所であったことが伺える。二ノ曲輪から本曲輪へは迷わずにすぐに到着。
本曲輪はこんな感じ。青い空で空気も美味しかった。
1590年の豊臣秀吉の小田原攻めにより後北条氏が滅亡、その後、徳川家康の譜代である松平家が城主となったが、忠頼の代に浜松に移封され、1601年に廃城となった。本曲輪からの眺望は、残念ながら、木々が邪魔で今一、見通せず。
他にも、惣曲輪、太鼓曲輪、笹曲輪などがあるが、時間の都合で廻らなかった。ちょっとだけ兵糧蔵跡までは足を伸ばしたが、特に何も無い。
駆け足の登城だったので、往復で20分程度だった。堀や縄張りは良く分かると思うが、それ以外には特に見所と言ったものは無かった。案内図や説明はしっかりあるし、登城路もまずまずの状態なので、時間があれば、訪問したい城址と思う。
この後は、2018年最後となる栃木県佐野市は唐沢山城へ向かう。高速道路で約1時間少々の距離だ。
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