サラリーマンの日本200名城登城記録

日本100名城、続100名城に興味をもった普通のサラリーマンが綴る登城日記。200名城の制覇は時間、体力、金銭に非常に厳しい旅行。だが、日本の歴史的遺跡・遺物の素晴らしさを知り、完全に登城した時の充実感を感じ、ついでにやたらと歩く運動不足の解消と仕事のストレス発散など、良いところづくめの面白さ。そのようなところを綴っていきたい。

タグ:19年1月四国城旅行

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続100名城の56城目は香川県の引田城(ひけたじょう。)2019年1月の3連休を利用して、四国(愛媛、香川県)の100名城・続100名城の10城を巡る旅で、大ラスの10城目。電車でのアクセスは、JR高徳線の引田駅から徒歩約20分。車なら、城址入口に駐車場とは思えないが、3台くらいが駐車出来るスペースがある。また、近くにキャンプ場があり、その駐車場も利用出来る。
登城日は2019年1月14日。丸亀城高松城と廻り、スタンプのある讃州(さんしゅう)井筒屋敷に到着したのは14時過ぎ。車で行く方は、井筒屋敷前の第一駐車場は10数台しか止めれないので、休日なら、最初からすぐ近くの第2駐車場を目指すと良いと思う。100台以上止めれそうな砂利だが、広大な駐車場だ。井筒屋さんで非常に丁寧に屋敷内の説明と、城址までの道程を教えてもらった。5分ほども掛からなかったと思うが、城址入口の駐車スペースに止め、登城開始。如何にも、続100名城の山城という雰囲気を醸し出している。
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引田城は文献史上、「南海通記」なるものに、1467年から1469年に寒川氏が領したとの記述があるのが初見である。その後、四宮氏、矢野氏が居城とするが、1582年に土佐の長曾我部元親の侵攻を受けることになる。登城していくと、意外と開けており、数分でこのような海を見渡せる場所に辿り着く。
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長曾我部氏の侵攻の翌年、羽柴秀吉は仙石秀久を派遣するも、撤退。だが、1587年に生駒親正が秀吉から讃岐国を与えられ城主となる。発掘調査により、生駒氏の代に、土作りの本城を石垣などで改築したと言う。10分もすれば、その本丸の石垣が見えて来る。これは古式の算木積みだ。
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本丸跡は非常にこじんまりとしている。生駒氏はその後、高松城に移るが、引田城は重要な支城としていた。
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本丸からの眺望。三方を海で囲まれているので、美しい海が見れる。
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ここから数分で天守台跡に到着する。説明版が確認できなかったが、多分、ここで間違いないはず。
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天守台跡から5分ほど行くと、引田鼻灯台がある。そこからの眺めも素晴らしかった。
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1615年の一国一城で廃城になるまでは使用されていたとのことだ。この後、見逃せない2箇所に向かう。東の丸と北二の丸の石垣だ。まずは、東の丸の石垣。残念にも木々が元気過ぎて、写真ではイマイチ。
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北二の丸の石垣の一部と思うが、崩落か何かでシートで覆われていた。
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一瞬、残念と思ったが、ちゃんとあった。綺麗に残っている石垣。ここまで来た甲斐があったと思わせる高石垣に感動。
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引田城は山城なので、夏場などは特に水分の準備をして登城すべきと思うが、他のシーズンであれば、厳しさは無いと思う。山麓から見所を全て廻って、往復で1時間弱だった。本丸などにしっかりと残っている石垣と絶景の眺望などとても楽しめる城であることは間違いないと思う。
これで、2019年1月の3連休での四国(愛媛、香川県)の100名城・続100名城の10城を巡る旅は終了。少々、疲れながら出発地点の松山空港に向かい、空路にて名古屋へ戻った。
この後は、少し、休みを入れ、2月初旬に九州の100名城・続100名城(大分、宮崎、鹿児島)の10城の旅だ。
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100名城の74城目は香川県の高松城。別名は、玉藻城。2019年1月の3連休を利用して、四国(愛媛、香川県)の100名城・続100名城の10城を巡る旅で、ラス前の9城目。電車でのアクセスは、JR高松駅から徒歩約5分。車なら、城址入口に無料の玉藻公園駐車場があり、いずれも、楽チンに登城できる。
登城日は2019年1月14日。朝一に登城した丸亀城から車で1時間弱で到着。玉藻公園駐車場は東口で、旭橋と旭門からの登城となる。
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旭橋を渡りながら見えるのが中堀。高松城は中堀、外堀、内掘に海水を引き込んでおり、よって、日本三大水城の一つである。この一帯は、玉藻公園となっており、入城するには200円で有料だ。東入口で入城料を払い、スタンプをゲット、序でにパンフレットも。すぐに巨石で作られた桝形が確認出来るので、是非、現地にて。
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高松城は、1587年に豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正が築城した。3年後の1590年に完成、併せてこの地を高松とした。桝形の南側には、現存の艮櫓(うしとらやぐら)がある。1677年に完成、元々は太鼓櫓があった場所であるが、昭和期に移築され、今の場所にある。
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桜の馬場、桜御門跡を進むと、重要文化財の披雲閣がある。元々は、藩の政庁や藩主の住居であったが、明治期に取り壊され、現在のものは、大正期の1917年に作られたものとのこと。ここの庭園は国の名勝にもなっている。
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庭園を抜けると右側に、月見櫓(左)、水手御門(真ん中)、渡櫓(右)の3点セットが現れる。現存している建築物で1676年に完成。水手御門は、この門から直接、海出て行く海城独自のもので、現存では唯一である。残念ながら、ご覧の通り、堀に水は無かった。
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生駒氏の治世は4代54年に及んだが、1640年に生駒騒動と言われるお家騒動で、領地を召し上げられ、その後、松平頼重が入城する。渡櫓の石垣には生駒家から松平家へ引き継がれた石垣の継ぎ足しが残っている。
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二の丸に向かう途中に、水門がある。堀と海が繋がっているので、潮の干満の水位調節のためのもの。ここで、城釣り(?)が出来、海の魚も釣れるとのことだ。
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二の丸から鞘橋と言う橋を渡ると、本丸に着く。1884年に取り壊されたが、平成期に修復された天守台跡がある。
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天守台からの鞘橋と二の丸。ここは内堀や瀬戸内海も眺めることが出来る。
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生駒氏時代の天守は3重であったとされるが、松平氏が取り壊し、1670年に小倉城の天守を模したとされる3重5階(3重4階+地下1階)を築造した。当時、四国内で最大であったとされる。発掘調査により、地下の存在が明らかになった。
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高松城はさほど大きくは無いので、全ての見所を廻っても1時間あれば十分であろう。珍しい水城で縄張りも分かり易く、案内もままあり、現存物も残っているので、是非、訪れたいと思わせる城であった。
この後は、この四国10城巡り旅行の大ラス、10城目の引田城へ向かう。
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100名城の73城目は香川県の丸亀城。別名は、亀山城、蓬莱城。2019年1月の3連休を利用して、四国(愛媛、香川県)の100名城・続100名城の10城を巡る旅で、8城目となる。電車でのアクセスは、JR丸亀駅から徒歩約10分で登城口に着く。車なら、城址周辺に有料駐車場があるし、満車でもコインパーキングがあるので安心だ。
登城日は2019年1月14日。現存12天守(弘前城松本城丸岡城犬山城彦根城、姫路城、松江城備中松山城丸亀城松山城宇和島城、高知城)のうちの11城目となる。(登城済も未アップは姫路城、未登城は高知城。)また、この日は「丸亀城新春フェスタ」なるイベントが開催されていた。人混みが嫌いな私としては、ちょっと微妙な気分になったが、こうした企画もので観光客を呼び込む町おこしのようなものは重要だとも思う。
高い石垣が朝日に映え、爽快な天気の中の登城、すぐに広大な水堀の異変に気付く。
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丸亀城の水堀は水質が悪いそうで、その改善のため、2018年に一部の水を抜いた。その大掛かりなプロジェクトは、TV東京(=テレ東)の「緊急SOS!池の水ぜんぶ抜く大作戦」なる、いかにも、テレ東らしい番組で企画、実施された。放映日は1月2日で、たまたま、千葉の実家に帰省していた際に見た。ここ丸亀城萩城の2城が正月特番で放映され、水を抜いたことで、ごみ掃除(ただ、ゴミの量は極小。丸亀市民や観光客のマナーの良さを実感。他国ではこれだけの規模なら、ゴミだらけと思われる。)、有害な魚の捕獲(いるはずもない外来種を捕獲、固有の魚は保護。)などをしながら、様々なお宝(=当時の瓦など。)が発見されていた。多分、2019年2月時点で、萩城も水が抜かれた堀を見ることが出来るはずだ。
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丸亀城は、1597年、標高66mの亀山に高松城を本拠地とする生駒親正が、支城として築城した。大手二の門から登城してすぐに、1670年頃に作られたとされる大手一の門がある。櫓門で非常に大きな桝形虎口。櫓内で太鼓を打ち、刻を知らせていたことから、太鼓門とも呼ばれていた。この一の門、二の門ともに、現存物で国の重要文化財となっている。
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大手一の門からすぐに、見返り坂を登ることになる。緩やかな一直線で、真冬なのに木々に囲まれ、清清しかった。右には見上げると首が痛くなるような高石垣が聳えている。
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写真以上に現地での迫力は物凄いものがある。三の丸北側の石垣で20mを超える。
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中でも、算木積みの隅角部は美しく、「扇の勾配」と言われる曲線を描く。
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圧倒的な石垣を横目に登って行くと、三の丸に到着する。ここの石垣も見所であるが、月見櫓跡から眺める景色が凄い。飯野山と言う山である。築城後、1615年の一国一城令により、一旦廃城となる。1658年、京極氏が入り、城の大改修を行い、1673年に完成する。
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三の丸から広い二の丸をゆっくり散策し、天守のある本丸へ向かう。現存の三重三階の天守は現存12天守の中では、最もこじんまりとしている。京極高和の元、1660年に竣工した。
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天守内に入り、まずはスタンプをゲット。撮影可なのが嬉しい。天守最上部の中はこんな感じ。
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勿論、眺望も素晴らしいので、現地にて是非。丸亀城は「総高石垣日本一」、つまり、単独の石垣ではなく、4段の石垣の合計の高さが日本一であるとのことだ。ちなみ、wikiによれば、単独(1段)では一番は大坂城の33m、次いで三重県にある伊賀上野城の30mとのことだ。(丸亀城は三の丸石垣で最大22m。)下の写真のようなこう言った石垣の合計ってことである。
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他にも、現存物の玄関先御門、番所長屋(大手一の門の近くにある。)など見所は多いが、見逃してしまいそうなものがある。丸亀城の石垣の大半は、「打ち込み接ぎ(はぎ)」であるが「切り込み接ぎ」と旧来の「野面積み」も見られる。下の写真は、東南の搦手口方面の野面積みと打ち込み接ぎのツーショット。このような石垣の積み方の新旧が見れるのは楽しい。
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丸亀城は広く、見所も多いので、最低でも1時間半から2時間は必要と思う。可愛らしい現存天守、圧倒的な石垣、価値のある現存建築物、各曲輪からの素晴らしい眺望、案内板や説明版もしっかりしており、道も整備されて登城し易いこと、序に、イベント(水抜きや新春フェスタ)などを開催して盛り上げていることなどから、当然の★★★★★とさせて頂いた。
この後は、この10城の旅のラス前、9城目は高松城へ向かった。
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100名城の72城目は愛媛県の今治城。別名は、吹揚城、美須賀城。2019年1月の3連休を利用して、四国(愛媛、香川県)の100名城・続100名城の10城を巡る旅で、7城目。電車でのアクセスは、JR予讃線の今治駅から、せとうちバスで「今治城前」下車で約10分。車なら、城址目の前に有料駐車場がある。
登城日は2019年1月13日。河後森城能島城の続く3城目。能島城からは30分程度で到着、城址前の駐車場に止め、少し周囲を廻る。この城は水堀が特徴的だからだ。平城ながら海城で、水堀には海水を引いて来ている。模擬天守の5重6階の天守と山里櫓、石垣、水堀のセットだ。水面(海面?)に反射した姿が美しく、お気に入りの1枚。
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今治城は1602年に、関ヶ原の戦いでの戦功で伊予半国20万石を領した藤堂高虎が瀬戸内海に面した海岸に築いた平城で、1613年頃に完成したとされる。入城すると、鉄御門があるが、その手間に高麗門があり、写真のグレーの部分がその袖塀の石垣の跡である。この門を突破しても、鉄御門と多聞櫓があり桝形で囲まれてしまう虎口になっている。

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入口正面には、権威を示す巨石(鏡石)がある。当時の築城奉行であった渡辺勘兵衛なる方に因んで、「勘兵衛石」と呼ばれていた。
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三の丸の表門であった鉄御門。再建物であるのが、残念。キレイ過ぎる。
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但し、発掘調査により、2つの楚石は残っている。
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二の丸には藤堂高虎の勇姿が、天守と映える良い撮影スポットになっている。
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城内には日本初の層塔型の五重天守が存在したと言われるが、天守台が無いので、実在したかは定かでは無いとのことだ。城の完成直後に高虎が伊勢・伊賀に国替えとなり、天守は伊賀上野城に移築する目的で解体されたが、1610年、丹波亀山城の築城の際、徳川家康に献上されて移築されたという。藤堂氏の国替え以降の城主は松平氏となり、その後、明治に至った。
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天守閣内にてスタンプをゲット。展示物で勉強しながら、最上階へ。そこからの眺望は夕日に映え、良かった。水堀や縄張りも良く分かる。
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日本三大水城(今治城、高松城、中津城)とも言われており、水堀の外側に海水口がある。ここから満潮時には海水が堀に入って来る。
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今治城は広くは無いが、紹介した見所に加えて、3つの櫓内での展示物もあり、ゆっくり見廻り、1時間ちょっとであった。現存遺物(建物)がほぼ残っていないし、天守が本当にあったのか否かが確認されていないなど、少々残念ではあるが、やはり、この水堀は壮大で、この地域の水軍の基地であったことを感じることが出来た。
これにて、2019年1月3連休の2日目の城巡りは終了。この後、丸亀市内まで移動し、翌日最終日は、丸亀城(現存12天守)、高松城(日本三大海城)、引田城の3城だ。
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続100名城の55城目は愛媛県の能島城(のしまじょう)。2019年1月の3連休を利用して、四国(愛媛、香川県)の100名城・続100名城の10城を巡る。事前の調べで、この時点では能島への上陸は不可とわかっていたが、スタンプのある村上水軍博物館へ。
登城日は2019年1月13日。河後森城から向かった。2時間くらいだったと思うが、到着。博物館にてスタンプをゲットし、館内を見て廻る。築城時の様子が人形を使って再現されている。
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能島は所謂、無人島で14世紀中期以降に能島村上氏が築城したとされる。村上氏は、能島・来島・因島に本拠にした三氏からなり、連携と離反を繰り返しつつも、互いに強い同族意識を持っていたとのことだ。
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博物館周辺には、とにかく、村上氏の銅像が建ちまくっている。「村上海賊」と呼ばれるが、俗に言う略奪のような不法行為をしいていたわけではなく、この地域を通行する水先案内人のようなことをし、通行料を徴収していた。この瀬戸内海は工場交通の重要な場所であるが、潮の流れが速く、難所でもあった。そこで、この地を良く知る村上水軍の出番であったと言うわけだ。当時、日本に滞在していた宣教師ルイス・フロイスは能島村上氏を「日本最大の海賊」と称している。
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能島村上氏は、西は九州北部、東は塩飽諸島に至る海上交通を掌握し、平時には瀬戸内海の水先案内、海上警固、海上運輸など、海の安全や交易・流通を担う重要な役割を果たした。戦時には小早船を巧みに操り、「ほうろく火矢」など火薬を用いた戦闘を得意とした。
博物館には展望台があるが、何も見えないので、カレイ山展望台に向かった。現地での案内図に寄れば、確かに、この地域が要害であったことが確認できる。
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この展望台からの眺望は晴天であったこともあり、圧巻だった。瀬戸内海の島々が良く見える。
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戦国末期、村上氏は豊臣秀吉との戦いに敗れ、1588年、秀吉の海賊廃止令により、水軍は消滅する。また、能島村上氏は、小早川隆景に従い、筑前に移動、そして、能島城は廃城となる。下の写真、左が能島、右は能島城の出丸とされていた鯛崎島だ。
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廃城以降、無人島になったので、遺構等が良く保存されていると言う。携帯電話のカメラでも登城路や本丸、本丸を囲む二の丸がちゃんと見える。
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残念ながら、2019年1月時点では、西日本豪雨の影響で能島への上陸は出来ず、4城目のスタンプのみとなってしまった。是非とも、復旧して、激しいと言われる潮の流れを体験し、登城してみたい城だ。
この後は、この日最後の今治城へ向かう。
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続100名城の54城目は愛媛県の河後森城(かごもりじょう)。別名は、川後森城。2019年1月の3連休を利用して、四国(愛媛、香川県)の100名城・続100名城の10城を巡る。電車でのアクセスは、JJR予土線松丸駅下車し、城の南側の風呂ヶ谷口まで徒歩で約20分。車なら、風呂ヶ谷口に無料の駐車場がある。
登城日は2019年1月13日。宿泊地の宇和島市内から車で30分も掛からなかったと思う。少々、駐車場まで迷ったが、何とか到着し、登城開始。整備されている緩やかな山道を歩いて行く。
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河後森城の築城時期は明らかになっていない。1500年代後半に川原淵殿と呼ばれていた渡辺氏の居城となっていたとされる。10分弱で虎口に到着する。復元された門がある。
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この日は、朝から霧が濃く、10時前でもこのような幻想的な景色を見ることが出来た。
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スタンプのある西第十曲輪の馬屋。勿論、再建物であるが、もう少し、お馬さんの出来が良ければ。。。
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この城には、多くの曲輪があるが、それを分断する堀切が凄かった。
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渡辺氏の後は、戸田氏、桑折氏が居住したとのこと。登城口から20分少々で到着した本郭には、建物や門跡、主殿舎と言われる城主の居住跡が残っている。
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この手作り感が半端ない。地元の子供たちが見所の案内板を作ってくれている。
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本郭からの眺望にも十分に満足できる。
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本郭のさらに奥に行くと、東第四曲輪と古城第二曲輪の間に、堀切があり、掘立柱の門があった。再現された門がある。
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この先にあるのが、古城と呼ばれる場所、建物や櫓の跡が発掘調査で発見されている。城自体は、1615年の一国一城令により、廃城になってしまう。古城があれば、新城があるので、現地で是非。
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河後森城はほぼ進路通りに進んで行けば、見所を全て見ることが出来る。往復で1時間程度であろう。城内の整備状況は非常に良く、案内板は子供達の研究の成果?が出ており、それが楽しかった。山城だが、さほど苦労して登るわけではないので、気軽に訪れたい場所だ。
この後は、前日に来た道を戻り、宇和島から松山市を抜け、同じ愛媛県の今治方面に向かう。能島城と今治城が、この日のノルマだ。
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100名城の71城目は愛媛県の宇和島城。別名は、鶴島城。2019年1月の3連休を利用して、四国(愛媛、香川県)の100名城・続100名城の10城を巡る。電車でのアクセスは、JR宇和島駅から徒歩で登城口まで約10分。車なら、登城口の桑折(こおり)氏武家長屋門の前に、有料駐車場がある。
登城日は2019年1月12日。午前中に松山城湯築城の2城、午後は大洲城宇和島城だ。桑折氏武家長屋門からの登城。この門は移築されたもので、数少ない武家屋敷だ。
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登城路の石垣を眺めながら、緩やかな石段を上がって行く。宇和島城は中世の城の跡地に、1596年、築城の名手・藤堂高虎が自身初の居城として改修に着手、1601年に天守が完成した。
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城内にある3つの井戸の一つ、最も重要視された井戸が井戸丸跡として残っている。
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本丸に侵入する際に通る三の門跡。
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ここを過ぎると、高石垣の上に天守が見えて来る。高虎が作った天守は3重3階の望楼型。その後、入った伊達宗利が、1676年に現在残る3重3階の層塔型天守へと建替えた。
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1603年の関ヶ原後に多くなった層塔型天守は装飾性が重視されている。
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スタンプは天守内にある。天守から見える本丸。一部は工事中であった。
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眺望は素晴らしいの一言。晴天であれば、と思うが、爽快な気分になった。
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時間の都合もあり、城から下ることにする。途中で通った式部丸は、石垣崩落でカバーが掛かっていた。
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式部丸跡から搦手道で降りる。最後は、上り立ち門。武家の正門とされる薬医門形式で、現存する薬医門としては、最大級且つ最古である可能性のある門だとのこと。
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宇和島城は山城なので、緩やかな登り道を行くが厳しさは無い。山麓からの往復で1時間くらいだった。小さいが貴重な現存天守をしっかり保存しているのが印象的だった。
これにて、四国の100名城、続100名城の旅の初日が終了。愛媛の100名城4つを予定通り、廻ることが出来た。この日は、宇和島市内に宿泊、翌日は愛媛県の残りの3城を廻る。計7城で愛媛県は制覇となる。
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100名城の70城目は愛媛県の大洲城(おおずじょう)。2019年1月の3連休を利用して、四国(愛媛、香川県)の100名城・続100名城の10城を巡る。電車でのアクセスは、JR大洲駅からタクシーで約5分、徒歩なら約20分。車なら、城址前に有料の市民会館駐車場がある。
登城日は2019年1月12日。午前中に松山城湯築城に登城、昼食を挟んで2時間弱で到着、市民会館駐車場から向かう。すぐに、高石垣と土塀の上に再建された天守が見えて来る。
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大洲城は、14世紀前半に伊予国の守護であった宇都宮豊房が築いた地蔵ヶ岳城が起源とされる。登城していくと間もなく、天守(真ん中)、高欄櫓(左手前)、台所櫓(右奥)が聳えている。
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豊臣秀吉の四国平定後、小早川隆景、藤堂高虎、脇坂安治などが城主となった。近代城郭にしてのは、高虎と言われており、脇坂安治に治世に4重4層の天守が建ったとされる。その天守に至るには、暗がり門という最後で城内最大の櫓門を抜けなくてはならない。このあたりが暗がり門跡である。
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天守は1888年まで現存していたが取り壊され、2004年に復元された。資料に基づき、伝統工法を用いて木造で復元された初の四重天守とのこと。スタンプのある右の台所櫓は1857年の安政の大地震で大破し、その2年後に再建されたもので、国の重要文化財だ。左の高欄櫓も同様に、地震で崩壊し、1859年に再建されたもの、これも重文である。
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台所櫓内にある復元模型。精密に出来ており、城の様子が良く分かる。
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眺望は残念ながら、雨でこんな感じだった。晴天であれば、もっと良いと思う。
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忘れてはいけないのが、二の丸にある苧綿櫓(おわたやぐら)。この時は修理中であった。1843年に再建されたもので、国の重要文化財。
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ここからは、肘川近くの標高20mの地蔵ヶ嶽に築城されたのが良く分かる。
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その他の見所は、これまた、重要文化財である三の丸南隅櫓や下台所などがある。下の写真は下台所で、現存物である。食糧庫であった。
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大洲城は三の丸以外の全ての見所を廻って約40分程度であった。城内は非常に綺麗に整備されており、現存する櫓は貴重だ。
この後は、この日最後の宇和島城へ向かう。現存12天守の一つだ。
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100名城の69城目は愛媛県の湯築城。別名は、湯月城。2019年1月の3連休を利用して、四国(愛媛、香川県)の100名城・続100名城の10城を巡る。電車でのアクセスは、JR松山駅から路面電車で道後公園駅まで約20分。車なら、城址に有料パーキングがある。
登城日は2019年1月12日。朝一で松山城に登城、その後、車で数分で到着。
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スタンプは城址内にある湯築城資料館にて。館員の方の丁寧な説明やビデオを鑑賞し、散策開始。南北朝時代の14世紀中頃に、河野氏が築城したとされる。丘陵部と平地部からなる城郭で、平地には当時の武家屋敷が復元されている。
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戦国期の1535年、河野通直が二重の堀(内堀、外堀)と土塁を作り、現在の形を完成させる。内堀の土塁がしっかりと残っている。
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外堀の土塁は展示室になっており、その高さを感じることが出来る。
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内堀はこのような感じで、秋には紅葉が綺麗ではないかと思わせる。一種の景勝地の雰囲気。土坑(ゴミ捨て場)や排水溝、遮断土塁(外と内の土塁が最も近接した箇所で、外から見えないようにし、防御を固めている土塁。)などが残っている。
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1585年、豊臣秀吉の四国攻めによって河野氏は小早川隆景に降伏、400年に及ぶ河野氏の伊予支配が終焉する。その後、福島正則が城主となったが、国分山城に居城を移し、廃城となる。丘陵には展望台があり、そのあたりが本壇であったとされる。高くは無いので、簡単に登ることが出来る。
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また、松山城築城の際には、湯築城の資材が利用されたことが明らかになっている。晴れていれば、もっと良い眺望が拝めるに違いない。
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登城から、平地部と丘陵部の散策で40分程度もあれば十分であろう。松山城を見ているがゆえに、物足りなさを感じざるを得ないが、綺麗に整備された公園、地元の方の熱心さは感じられる場所だ。
この後は、100名城の大洲城へ向かう。松山市内からさほど遠くなく、1時間半程度のドライブだ。
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100名城の68城目は愛媛県の松山城。別名は、勝山城、金亀城。2019年1月の3連休を利用して、四国(愛媛、香川県)の100名城・続100名城の10城を巡る。電車でのアクセスは、伊予鉄道の松山市駅から徒歩10分、JR松山駅からは徒歩15分。他に、市内電車でもアクセス可能。車なら、周辺に有料駐車場が複数、ちょっと離れているが、コインパーキングも多くあり。
登城日は2019年1月12日。3連休の前日に空路にて松山に入り、初日の朝、1城目だ。城下からは、ロープウェイ・リフトでの登城も可能だが、徒歩での登城を選択、東雲口登城道からだ。築城主で初代城主の加藤嘉明の銅像が登城口にある。東雲神社を過ぎると、ロープウェイやリフトを眺めることになる。登城開始して約10分少々で長者ヶ平というロープウェイ・リフトの終着駅に着く。登り道を行くので、時間が無い人や夏場などは楽した方が良いかも知れない。そこから少しで、本丸の壮大な高くて急な石垣が見えて来る。隠門続櫓下の石垣だ。
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そして、楽しみにしていた本丸への登城。まずは、大手登城にある高麗門の戸無門(重文)。1624年頃の当時から戸が無かったとされ、1800年に建て替えられたという札が残っている。上に見えるのは筒井門西続櫓、ここから攻撃されるので、戸が無くても大丈夫と言うことか。さらに、左背後には太鼓櫓があり、ここからも攻撃される。
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戸無門を過ぎると、筒井門と隠門(重文)、その櫓がある。筒井門は再建物であるが、隠門は現存物、築城時のままである。下の写真は、運良くこの門を突破できたとしての内側からのもの。右から筒井門西続櫓、筒井門、筒井門東続櫓、隠門、隠門続櫓(重文)の構成。最初に侵入する戸無門は右奥。敵は筒井門の突破を目指すが、その奥にある隠門から奇襲できるようになっている。現地で、是非、この防御の工夫を感じて頂きたいと思う。
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ここを突破して、本丸に入るには、太鼓櫓が待ち構えている。広い本丸を抜け、そして、ようやく、本壇(天守がある場所)が見えて来る。
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松山城の築城は、1602年。豊臣秀吉の家臣であった加藤嘉明が、標高132mの勝山に五重天守を持つ本丸を置き、山麓に居住空間としての二の丸を作った。天守は姫路城などと同じく連立式天守。勿論、現存天守だ。加藤嘉明の後、蒲生氏、松平定行が城主となったが、五重天守は定行の時に、三重三階地下一階に縮小された。現在のものは、1784年の落雷によって消失し、70年後の1852年に再建されたもの。
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天守内部の入口にてスタンプをゲット。外を眺めると、完全に囲んでいる様子が分かる。
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上から見ると、凄く、その防御が分かる。ちょっと、やり過ぎでは?と思うくらいだ。
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天気が良ければ、もっと良い眺望に違いない。この日は霧発生で、ほとんど見えず。
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天守を下り、下山するが、人気の無い天守の裏側に向かう。ほぼ誰もいない中で、高石垣を堪能出来る。
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帰りは県庁裏登城路がお勧めだ。現地でもあまりPRされていない気がしたが、山麓にある二の丸と山上の本丸を繋ぐ登り石垣はこの道で見れる。日本最大規模とのことなので、見逃さないで欲しい。やや緑が元気であったが、その壮大さに驚くと思う。
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下山して、県庁の駐車場か広場から1枚。見えにくいが、二の丸と天守のショット。
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この他にも見所は多過ぎて、書き切れない。大天守、小天守含む21個の重要文化財、壮大な石垣、井戸や土塀、水堀等、全て見るなら、急いでも往復2時間は必要であろう。松山城は、是非、自分が「攻める」気になって、登城すると面白いと思う。建造物類の貴重性、登城路(一部、閉鎖中)の整備状態の良さ、ロープウェイなどで簡単に登城できるようにしていること、説明版の充実度なども加味して、当然の★★★★★。
天気が良ければ良かったのだが、これだけはどうにもならない。名残惜しみつつ、次はすぐ近くの道後温泉にある湯築城に向かう。
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